最近、よく思うことがあります。

本当に読めている人ほど、読めていない。
本当に観れている人ほど、観れていない。

一見すると、変な言い方に聞こえてしまうかもしれません。

でもこれは、いまの時代における「わかる」ということの核心にかなり近い話なんじゃないかと思っています。

今日はこのあたりの話を、このブログの中で丁寧に深掘りしてみたいと思います。

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たとえば、ジブリ作品なんかは、非常にわかりやすい。

世の中には、「ジブリ大好き!」と豪語する人が老若男女問わず、たくさんいる。僕自身、そんな人たちの話を本当に数え切れないほど聞いてきました。

ただ、その「大好き!」が、トトロかわいいとか、ハクさまかっこいいとか、あの独特のジブリっぽい世界観が好きとか、そういう表面的な親しみやすさで止まっている場合もかなり多いような気がしています。

そこで止まっているなら、本当に「ジブリを観た」と言えるのかという問いに対して意外と暗雲が立ち込めてくるなと。

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逆に、「ジブリってちょっと苦手なんだよね…」と語ってくれる人がいます。

そして、僕はむしろ、そういう人こそが、ジブリをちゃんと観れている場合があるよなあと思っています。

なぜなら、ジブリ作品って本来、そんなに気持ちよく消費できるものばかりではないからです。

不気味な場面も多いし、ときどきかなり説教くさいわけです。『火垂るの墓』などはわかりやすいですが、トラウマレベルになる作品も多いです。

人間の欲望や労働観、自然の暴力性が、かなりむき出しで描かれている。そういうものを表面ではなく身体で受け取ってしまった人ほど、簡単には「大好き!」とは言えなくなる。

そして最後まで観ることもできない。結果的に「苦手」と判定する。

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でも、本当に何かを受け取ってしまったときって、人はそれを気持ちよく処理しきれないわけですよね。

むしろ、立ち止まる。トラウマのようにして忘れられない。そういう反応のほうが先に起きてくる。子どものころにジブリを観るという体験も、きっと同じだと思うのです。

あの可愛らしいアニメーションに騙されそうになるけれど、本当はかなり本質的なメッセージを子どもたちにダイレクトにぶつけてくるのがジブリ作品です。

で、ちゃんとわかっている子どもほど、これは「ヤバいやつだ」と反応するんだと思います。

僕はむしろ、そういう「ちゃんと最後まで観られなかった子」のほうが、作品の深いところに、最初から直接触れていたんじゃないかと思うことがあります。

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で、この話は、読書でもまったく同じだと思っています。

以前書いた「副音声」についてのブログなんて、まさにそうです。


あのとき僕は『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』という書籍を手がかりにしながら、読書における「伴走」の価値について書いてみました。

そこでは、名作を前にして立ちすくむ人にとって必要なのは、上から意味を教える解説ではなく、横で一緒に受け取り方を辿ってくれる「副音声」のような存在なのではないか、と書いた。

そして、あの32歳のみくのしんさんこそ、僕はむしろ「本を読めている人」だと思ったんですよね。

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32歳まで1冊も本を読んでこなかった人こそが、本を読めている人って本当に不思議な話です。

でも彼は、わからないところで、ちゃんとつまずく。妙なところに引っかかる。読みながら勝手にどんどんとズレていく。でもそれこそが、自分の中で「読む」ということなんだと思う。

その一つひとつの反応が、作品をただ情報として処理している反応ではなく、身体ごと受け取ってしまっている人の反応に僕には見えました。

ふつう、読書が苦手だと言う人は「ちゃんと読めない自分」を恥じてしまいやすい。

でも実際には、その「ちゃんと読めない」は、作品にちゃんと触れているからこそ起きている場合もあるはずです。

もちろん、単に読書習慣が足りないとか、言葉に馴染みがないということもあります。

ただ、それだけではないはずなんです。ほんとうに何かが入ってきてしまうからこそ、立ち止まってしまう人もいる。

だから僕は、読書が苦手だと語る人を、単純に「読めていない人」だとはまったく思わない。

むしろ、そこで何につまずいているのかを丁寧に見ていくと、その人だけの「読み」の入口がすでに始まっているとさえ思います。

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一方で、世の中には、本をドンドン猛スピードで読める人がいる。

大量に読んで、きれいに要約して、論点も整理できる。たしかにそれはすごいことだと思います。

でも、それは本当に「読めている」と言えるのだろうか。

書籍の中のメタファーや暗喩に鈍感なままでも、本は読めてしまう。いや、むしろ鈍感だからこそ、いくらでも大量に読めてしまうことが往々にしてある。

比喩や暗喩を「意味」として理解することはできるけれど、それが自分の深層心理や身体感覚にまでちゃんと届いているとは限らない。

本当に読めたときには、そう簡単には次の一冊には行けないはずなんです。

その一文がなぜかずっと残る。昔の記憶が蘇ってしまったり、生活の見え方が少し変わってしまったりする。

だから逆説的に「読めていないからこそ、いくらでも読めてしまう」という現象は、たしかにあるなあと思う。

大食い選手権に出てくる人たちが、ちゃんと消化していないからこそ、いくらでも食べることができて、なおかつ細身の体型が維持できている、みたいな話にもとてもよく似ている。

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さらに、ここで最近ずっと気になっているのが、「言語化力が高い」とか「解像度が高い」という言葉が、あまりにも頻繁に使われすぎていることです。

もちろん、言語化する力や、対象を細かく見分ける力それ自体が悪いわけではない。

でも、それをそのまま「理解」だと思い始めた瞬間に、人は本当の理解から遠ざかる気がします。

他人にもわかるように説明できるし、構造化できる。

いまの時代は、こうしたことができると「わかっているひとだ」と見なされやすい。けれど、本当にそうなのだろうか。

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このことを考えるとき、僕はいつも養老孟司さんの言う「情報処理」と「情報化」の違いを思い出します。


これまでに世間で価値があったもの、そしていまAIによって加速しているのは、圧倒的に「情報処理」のほうなんです。

すでに情報になったものを速く、正確に、効率よく扱う。それはAIが最も得意とする領域ですし、現代人もまた、その速度に巻き込まれながら、ありえない速さで情報処理をするようになりました。

一方で、「情報化」はまったく別物だと思う。

それは、自分の身体や五感や経験から、まだ言葉になっていないものを、なんとか意味にしていく行為です。

違和感や引っかかりや、うまく説明できない感覚を、自分の中で少しずつ言葉にしていくこと。もっと言えば、自分でもまだわかっていないことこそを、書きながら、考えながら、ようやく「わかっていく」こと。

ところが今は、この二つが完全に混同されている。情報処理が上手くなれば、理解が深まっているように外側から見えてしまう。

出力が速ければ、知性が高まっているように見えてしまう。でも実際には、前進しているようで、それは大きく後退しているだけなのかもしれない。

本当に大事なことは、自分にしかできない「情報化」の力をどう守るかだと思います。

AI時代には、それはなおさらのことです。

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何に引っかかるのか。
なぜその一文が忘れられないのか。
なぜその映画を最後まで気持ちよく観終われなかったのか。

そういう、自分の身体が先に知っていることを、頭に向かって「なんでだろうね…?」と少しずつ問いながら促していくこと。

そして、そういう意味での理解は、解像度や言語化力を磨くだけでは、絶対に辿り着けない境地でもある。

だから、僕は「解像度を高めるな!言語化力を高めるな!」と、こんな時代だからこそ強く言い切ってしまいたくなる。

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もちろん、ほんとうに否定したいのは、それらの能力そのものではないんです。それを「理解の完成」だと、勘違いする態度のほうが間違っていると強く言いたい。

本当にわかった人ほど、簡単には「わかった」とは言えない。
本当に読めた人ほど、簡単には読み終えられない。

そして本当に作品に触れた人の反応は、必ずしも「好き」ではない。

むしろ、「苦手」「しんどい」「よくわからないけれど残る」という反応のほうが、深く届いていることすらある。僕が今日強く強調したいのは、まさにこの点です。

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AI時代に必要なのは、誰よりも速く処理することではなく、ゆっくりと自分の身体を通して、情報化していくことなのだと思う。

そして、お互いにその変化を待てること。相手のスピード感で腹落ちしていくまでの時間を、じっくり待ち合うことができること。

僕がコミュニティを運営しながら本当につくりたいのも、まさにそういう世界線なのだと思います。

本をすらすら読める人だけが集まる場所でもない。深い考察をきれいに言語化できる人だけが評価される場所でもない。

そんなのは、もう表の世界でいくらでも存在していわけですから。

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そうじゃなくて、「ちゃんと読めない」「途中でつまずく」「でもなぜか気になる」という人が、そのまま入ってきてもいい場所。そして、そのわからなさを恥じなくてもいい場所がつくりたい。

一方で、「副音声」的に伴走する側の人々もまた、誰かの戸惑いに付き添うことで、自分一人では見落としていたものに、新たに出会い直す体験。

読み慣れていたはずの作品に、もう一度驚き直す。そういうふうに、支える側もまた支えられている関係性が理想だなと。

僕は、そういう絶妙な、もちつもたれつの関係性がひたすらスイッチされているような共同体をつくりたい。

そういう関係性が日々生まれるような場所こそ、AI時代にますます必要になっていくはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。