昨日と今日、Voicyで更新した長田さんとの対談。今日はその続きのような内容になります。



この内容は、刺さる方には刺さる内容になったみたいで、真剣にローカルや旅について考えているひとにとっては、課題感や問題意識みたいなものが伝わる内容なのだなあと強く実感しました。

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また、世の中では、分断が広がる中で「横の旅」よりも「縦の旅」が大事だと叫ばれつつも、「じゃあ、そのハードルをさげるための入口やきっかけをどうやったらつくれるか」は意外と語られない話だなと思います。

その時に、長田さんのような立ち位置で、地域側と都会やインターネットのコミュニティ、そのお互いの信頼関係を両方同時に築いている存在が非常に重要になるんじゃないか、それが今の僕の仮説なわけです。

長田さんとの対談内でも話したように、観光客と地元のひとをつないでくれる人との「関係性」や「信頼性」が実は非常に重要なのだと感じています。

なぜなら、そのような案内人を務めてくれる「あわい」にいる人への信頼を担保にしながら、僕らは自分とは異なる世界に入っていくことができるから。

それが「斜めの旅」という言葉の意味合いでもあります。

で、だとしたら、その案内人のひとと、共通言語やコンテキストを共有していることのほうが重要であって、その人達との日常的なつながり、両方との架け橋になるあわいの人達がこれからのキーマンになるよね、という話をしました。

以前もこのブログでご紹介した、坂ノ途中・小野さんが提唱している「コウモリのような存在」の重要性、それが日に日に増してきているなあと思います。


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で、突然ですが、今日の本題は、最近よく耳にするようになった、今年の流行語でもある「界隈」についてです。

僕は、誰かが仕掛けたわけでもない、こういうストリートから自然発生的に生まれてきた流行語が意外と嫌いじゃない。

なんなら、いつも非常におもしろいなあと思っています。

で、この「界隈」という言葉や概念って、若い人を中心にものすごくラフに使われていますが、その理由はこの言葉を聞いた瞬間に誰もが想像するものがあるから、こんなにも便利に使われていると思うんですよね。

もちろん、界隈は、コミュニティとも違うし、群れやトライブなんかとも違う。

あきらかに、自分とは関係がない異質さや、普通じゃない感じを表現しているはずです。

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さらに、その中にいるひとりひとりは孤立している感じも、「界隈」という言葉の中には上手に表現されている感じがしますよね。

つまり個体同士のコミュニケーションはそこにはあまり存在しない。

一方で、群れやトライブには、ヒエラルキーや暗黙の序列、つまり秩序や法のようなものが含まれる。

でも界隈はそうじゃないんです。

歌舞伎町界隈とかは、非常にわかりやすいけれども、その中にいる人達が孤立化していて、さらにそこにはどちらかと言えば陰湿なイメージが付きまとうのが、界隈という言葉の特性だと思います。

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でも、じゃあネガティブなことだけなのか?と言えば決してそうではなくて。

界隈の場合、その周辺にいたいと思うなら勝手にいればいいし、誰かが許可を出しているわけではない。出入りは自由。申告も不要。

寛容なイメージもあるし、悪く言えば、無秩序、無法状態です。

それゆえに、不穏なもの、怪しいものというイメージで吹き溜まりみたいになっていく。スナックなんかの猥雑さなんかにも近いかもしれません。

正解・不正解や、正統・邪道のヒエラルキーがそこにあるわけでもない。

強いて言えば、センスの良し悪しぐらい。だから、誰でも参加できる形において自然発生的に生まれてくる場が、界隈です。

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ちなみに「界隈」の語源をAIに聞いてみたところ、「界」は「境界」や「範囲」という意味を持つそうです。

そして、 「隈」は「曲がりくねった場所」や「影」などの意味を持っているとのこと。例えば、山や川が曲がりこんだところ、または奥まったところを指すそうです。

この「先が見えない」というのがまた「界隈」という言葉のなんとも言えない感じをあらわしているなと感じます。

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つまり、その陰湿さが「いま」を表しているということだと思うんですよね。

2024年の「個別化」や「分断」みたいなものを見事に表している。

そして、その分断している現象全体を、それぞれが見ている世界観や世界認識から眺めた様子や、捉えている不気味さみたいなものもしっかりと体現している。

つまり、「影」になっちゃっているということですよね。

裏金問題とか、陰謀論とか、そういうみえないところで何かヤバいことしているんだろう、という予測可能性みたいなものが勝手に働いている。

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そして、一方でどこかで、その怪しさに対して、少し同化をしたいと思う場合もあるということですよね。

そんなアンビバレントな感情も見事に表現しているなと思うんです。ここも意外と重要なポイントだと思います。

少なくとも、興味関心は抱いてしまうものでもあるということですよね。それは、陰謀論とか都市伝説になぜか惹かれてしまう何かにも似ている。

自分以外の界隈は怪しく見える、言葉選ばずに言えば、非常にくだらなくも見える、でもだからこそ魅惑的みたいな逆説もあるわけですよね。

怪しそうだったり心底くだらない感じを感じつつも、なんだかその熱狂が楽しそうにも見えてしまうということなんでしょうね。過去に何度もご紹介してきた「トム・ソーヤーの冒険」のペンキ塗りみたいな現象でもあるなあと思います。

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だから、余計に分断が進む。怪しくもあり、ある種、魅惑的でもあるからです。余計に、自分から遠ざけたくなる。

で、この界隈の「怪しさ」を踏まえたうえで、そこをしっかりと歩けるかどうか。

それがきっと、あわいを歩む人たちの役割でもあると思うのです。

自分自身がそこに立とうとすれば、そこが空白や間(あいだ)ではなく「合わせ」になり「あわい」になるわけですから。

もっとわかりやすく言い換えれば、あわいの領域を、自分という「存在」を通してつくっていくことができる。

間ではなく、自分が立つことで、重なりとして表現できる。重なりは「存在する」ことによって生まれるわけですからね。

そして、両方のいいところも悪いところも清濁併せ呑むことで、その界隈同士の架け橋にもなれる。

まさに、コウモリのような存在になれる。その時に大切なことが、両者に対する敬意なのだとも思います。伝聞で決めつけない、一方的に判断しない。

両者の魅力を自分自身でしっかりと認識し、理解をしつつ、ネガティブな側面の危うさみたいなものも、ちゃんと同時に理解しておくこと。

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そして、そういうあわいの存在が、たぶんこれからのキーマンになっていくと思うんですよね。

グリム童話の「ひきょうなコウモリ」の物語、そしてあのときのブログのときにもご紹介した人間と鬼との間に生まれた子どもである「方子」の物語もそう。

境界線に立つ者たちは、どちらからも異質な存在とみなされて、怪しまれて、どうしても石を投げられてしまいがち。

その結果として、コウモリのように卑屈になって卑怯になるか、片子のように自分を追い詰めて自殺してしまうか、そのどちらかになりがちだということです。

でも、それでも、そのあわいにいるひとたちが、世の中の「分断」を少しでも変化させてくれる存在になると思っています。

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だからこそ、Wasei Salonは、この感覚を大切にするコミュニティでありたいなあというのは常々思っています。

そして、そんな境界線上を歩く、あわいを受け入れるひとたちのオアシスのような場でもありたいと願う。

「コウモリをコウモリのまま受け入れる、片子を片子のまま受け入れる」ということです。

コウモリを、獣として受けれたり、鳥として受けれるわけでもない。

片子を人間として受け入れたり、鬼として受け入れるわけでもない。

「あなたはあなたでしょう」と。それこそが本当の「ありのまま」な気がしています。

自分たちが信じる型や枠に当てはめて、それに従うなら受け入れるけれど、そうじゃないなら排除するということではなく、もっとその「あわい」であることに価値があるということに対して、丁寧に勇気づけしていきたい。

繰り返しにはなってしまうけれど、あわいにいるひとたちは、どっちから観ても必ず「よそ者扱い」になってしまうから。石を投げられて、いろんなひどいことも言われてしまう。

でも、実はそのひとたちこそが、分断していく世の中で、かけがえのない架け橋をつくりだしてくれていて、新たな可能性を模索しようとしてくれているひとたちであるはずなのです。

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人々をちゃんとつなぐための「怪しさ」と戦い、そこで葛藤しているひとたち、そのひとたちの憩いの場として機能するように、うまく貢献したいなあと思います。

そして、小さくとも着実に、世の中に「斜めの関係性」みたいなものを増やしていけたらいいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。