最近発売された、東畑開人さんと鏡リュウジさんの対話本『昼間のスターゲイザー    占いと心理学の対話』を読んでいて、ある一節にとても強く心惹かれました。

https://wasei.salon/books/9784087881288

東畑さんが、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に触れながら、こんなことを語っていました。少し引用してみます。

勇気って昼間の世界で合理的に考えて出せるものじゃないんです。異世界に行って、つまり夜の世界で、いろんな人たちと出会い、勇気をもらって帰ってくる。勇気は出すものじゃなくて、「もらう」ものである。


これは本当にそうだなあと感じます。

「勇気を出す」という言い方は、普段あまりにも当たり前に使っているけれど、よくよく考えてみると、かなり自力の言葉。

自分の中にまず「勇気」という資源があって、それを自分の意志で取り出していく。気合いを入れて踏ん張って、内側からひねり出す、そんな印象が強い言葉ですよね。

ーーー

でも、実際は、そんなに単純ではないはずです。

「勇気を出せ」と言われて出せるぐらいなら、きっと最初からそこまで困っていない。

むしろ、どうしても出せないからこそ、僕らは困っているわけで。

自分の中をどれだけ探しても、勇気のようなものが見つからない。だから、怖くてその場に立ち尽くしてしまう。

そういうときに、他人から「もっと主体的に、もっと自信を持って、勇気を出して!」と言われると、その言葉は励ましというより、どこか追い詰める言葉にもなってしまうわけです。

ーーー

ただ、ここで誤解して欲しくないのですが、もちろん、最後に一歩踏み出すのは本人です。

その勇気を出す部分を他人が代わってあげることは絶対にできない。

でも、その一歩の前に、どこかで勇気を「もらう」時間というのは明確にあるのだと思います。

誰かの言葉や物語から、あるいは共同体のような場において誰かが先に小さく踏み出している姿から、勇気をもらう瞬間。

そういう外側からの何かに触れたときに、自分の中でふと、少しだけ身体が動く感覚があるよなあと思います。

それっていうのは、結果だけを見れば、その人が勇気を出したようにも見えるんです。

でも実際には、その勇気は最初からその人の中にあったものではないのかもしれない。

外側から自然と手渡されて、気づかないうちに受け取っていて、ようやくその種が内側で開花したものだったのかもしれないなあと思うのです。

ーーー

で、この東畑さんの話を読んでいて、僕は小説やフィクションのことをずっと考えていました。

東畑さんがエンデの小説『はてしない物語』に触れていたこともあり、小説や映画というものは、まさにそんな勇気をもらうための場所なのだと思いました。

フィクションは、よく現実逃避のように語られがちです。

もちろん、そういう側面もあるとは思います。疲れた現実から少し離れて、別の世界に入っていく。日常から距離を取る。自分の人生とは違う時間を生きてみる。

でも、良いフィクションは、ただ現実から逃げるためだけにあるわけではない。むしろ、現実に戻ってくるためにある。

一度、あちら側へ行って、もう一度こちら側へ帰ってくる。

そのとき、現実の問題が解決しているわけではない。でも、不思議と少しだけ違った景色に見えてくるときってありますよね。

昨日まで見られなかったものを、少しだけ見られるようになって、ずっと逃げていた違和感を少しだけ直視できるようになったりもする。

そして、言えなかったことを少しだけ言えそうな気なんかもしてくるわけです。

『はてしない物語』の主人公も、そうやって「あちら側」へ行くことによって、自分の父親に対して話しかける勇気を獲得して、こちら側に帰って来たというお話です。

ーーー

たとえば、最近観た映画『8番出口』も、僕にはそんな勇気の話に思えました。

主人公(二宮和也さん)は冒頭で、電車の中で赤ちゃんが泣いていて、それに怒鳴っているサラリーマンを、見て見ぬふりをする。

でも、あちら側へ行って、こちら側に帰ってくることによって、今度はまったく同じ状況のシーンにおいても、勇気を出して、そのサラリーマンを制止するわけです。

「違和感を見逃さないこと。間違えたら戻ること。戻ることも含めて、前に進むこと。」それをゲームのような世界で体験したからこそ、できたこと。

ーーー

そして不思議なのは、その物語の中で主人公が何かを得るだけではなく、それを観ている観客の側や、その小説を読んでいる読者側も、なぜか少しだけ勇気が宿る、宿ってしまうんだということです。

自分はただ本を読んだり、映画館の椅子に座っていただけにも関わらず、です。

でも、これこそがきっと物語の持つ力なのだと思います。

つまり、人は、勇気を出して別世に行くのではない。なぜか不意に別世に迷い込んでしまって、あちら側の世界の「理不尽さ」に巻き込まれ、でもその体験によって勇気をもらって、こちら側へと帰ってくる。

それが、物語の真の「効果効能」のような気がします。

ーーー

そして、これは小説や映画だけの話ではないように思います。

Wasei Salonのようなクローズドなコミュニティもまた、そういう意味での別世になりうるのではないか。今は、そんなことを考えています。

この点、以前「編集とは別世をつくることだ」という文章を書いたことがあります。


表の世界が、どんどん評価と監視の場所になっていくなら、その外側に、別の価値観でふるまえる場所を編集し、つくり出す必要がある、と。

あのブログ内で紹介した蔦屋重三郎が江戸の世の中で「別世」をつくったように、僕らもまた、自分たちの手で別世をつくる必要があるのではないか。

そんなことを、あのブログの中では考えていました。

ーーー

でも、今回あらためて思ったのは、その別世は、ただ評価や監視から逃れるためだけの場所ではないということです。

別世とは、まさに「勇気をもらう場所」でもある。

コミュニティというと、どうしても「交流する場所」や「学ぶ場所」や「情報交換する場所」のように説明されがちです。

もちろん、それも間違ってはいませんが、でも、僕がWasei Salonで本当にやりたいことは、誰かに正解を与えることではない。

成功法則を共有することでもないし、誰かの人生のノウハウを、そのまま別の誰かに移植することでもない。むしろ、もっともっと些細なことです。

誰かが、ほんの少し勇気を出す。

具体的には、自分の迷いや弱さを、なかったことにせずにちゃんと言葉にしてみる。

その姿に、別の誰かが触れることによって、その人の中でも少しだけ何かが動きだしてしまう。

「あの人が、あんなふうに迷いながらも勇気を出して日常の仕事や暮らしに取り組んでいるなら、自分も少しだけ勇気を出してみようかな」

そうやって勇気が自然と移っていく、そんな光景をWasei Salon内で何度も何度も観てきたからこそ、まさに勇気は出すものではなく、もらうもの、だなと強く実感します。

ーーー

また以前、「ことわざ」と「ものがたり」の違いについて書いたことがあります。


ことわざは、その場その場を切り抜けるための知恵です。

もちろん、それはそれで大切なんですが、でも人が本当に困ったときに必要なのは、「この場面ではどうすればいいか」という助言だけではなく、「この出来事を自分の人生の中でどう受け止めるのか」という、もっと大きな物語のほうなのだと思います。

言い換えると、「こうすればいい」ということわざ的なノウハウだけでは、人はなかなか勇気を出すことはできない。

誰かの「ものがたり」に触れてみて、その人の踏み出し方に少し触れてみて、そこで初めて勇気のようなものが宿るのだと思います。

だから、ここで移っているのはノウハウではないわけです。もっと、相手のナリフリを真似る感じに近い。

何をしたかではなく、どう踏み出したか。何を達成したかではなく、どんな迷い方をしながら、それでも一歩を踏み出したのか。

その身振りなんかに触れることで、自分の中にも勇気が宿るという構造なんだと思います。

ーーー

そして、もう完全にお気づきだと思うのですが、『葬送のフリーレン』の「ヒンメルならそうした」という言葉も、まさにそういう話だと思います。


ヒンメルは「マニュアル」を残したわけではない。「正解集」や「攻略法」を残したわけでもない。

でも、ヒンメルのふるまいが、フリーレンの中にはしっかりと残っている。

つまり、フリーレンと行った「あちら側(旧パーティー)」の記憶があるから、「こちら側(新パーティー)」でもちょっとだけ勇気が出る。

『葬送のフリーレン』とはまさにそういう物語ですし、そのような身振りの記憶が、時間を越えて、別の誰かの勇気につながっていくことを僕らに見事に教えてくれている。

ーーー

Wasei Salonでも、そういうことが起きたらいいなと、ほんとうに心から強く願っています。

誰かの小さな勇気が、別の誰かの中に自然と宿る。そしてもらった人が、また別の場所で少し勇気を出す。その姿を見たまた別の誰かが、少しだけ勇気をもらう。

勇気はそうやって循環する。

その起点となったと思えるような人でさえ、また別の誰か、先人たちから勇気をもらい、受け取ってきたに過ぎないわけです。

ーーー

しかもそれっていうのは、大きな勇気でなくてもかまわない。

会社を辞めるとか、移住するとか、起業するとか、人生を一変させるような決断だけが勇気ではないと僕は思います。

むしろ、人生の何気ない小さな勇気のほうが、むしろ勇気の本筋に思えます。

自分の違和感を、なかったことにしない。怖かった場所に、もう一度自分から顔を出してみる。

その程度の勇気で構わない。でも、その小さな勇気を試せる場所があるかどうかは、人間にとってものすごく大きいと思います。

ーーー

ただ、ここで同時に気をつけたいこともあります。

それは、誰かひとりの「強い物語」を与える場所になってはいけないということです。

そうなってしまった瞬間に、それは別世ではなく「閉じた神話」のようになってしまう。

ひとりの強いインフルエンサーの物語に勇気づけられることは、確かにすごく強力ではあるのだけれども、その場合だと「あの人だからできる」と崇拝の対象になりがち。

つまり、相手と自分を隔てて、すごい人と凡庸な私、という構造になってしまう。

逆に言えば、閉じた神話は、昔からそういうヒエラルキーを社会の中でつくるために、ハック的にも用いられがちだったんだろうなあと。

ーーー

僕がつくりたいのは、ひとつの大きな物語に回収する場所ではない。

ここが、明確に他のコミュニティが謳う部分と異なるところです。

僕は、それぞれが、それぞれの自分の物語を育てるためにこそ、誰かの物語や小さな勇気に触れ、少しだけ自分の足元を確かめ直せるような場所をつくりたい。

むしろ、勇気を循環する場所にしたい。もらった勇気を、少しだけ試せる場所にして、その小さな勇気がまた他の誰かに手渡されていく場所にしたい。

そんな循環と、確かな積み重なりこそが、場の文化や場の記憶へとつながっていくんだろうなあと思っています。

ーーー

最後に、繰り返しになりますが、勇気は、自分ひとりで内側からひねり出すものではない。

誰かからもらい、そしてまた別の誰かの手元へと自然と手渡されていくものなのだと思います。

小説や映画が、僕たちを一度あちら側へ連れていき、こちら側へ帰ってきたあとの勇気を与えてくれるように、Wasei Salonもまた、そんな別世でありたいなあと思っています。

僕らができることは、その循環が少しでも健やかに巡りますようにと、祈るようにしてその土壌を耕していくことだけ。

そんな小さな勇気が循環する場所を、これからも淡々とつくっていきたいと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。