僕は手を変え品を変え、敬意の重要性について日々発信しています。
しかし、どうやって相手に対して敬意をあらわせられるのか?という点は、意外と抽象的でわかりにくいなと思っています。
実際、「鳥井さんにとって敬意をあらわすとはどういうことか?」みたいなことを、過去に何度も聞かれたことがあり、その都度返答に困っていました。
では、相手に対して敬意を示すとは、具体的にはどういう状態なのか。
今日はそんなことを改めて丁寧に考えてみたいなと思います。
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この点、一つの結論としてはタイトルにもある通り「私は目の前の相手から、もっともっと多くのことを学ばせてもらえるんだ」という心的態度が、ひとつの敬意のあらわれのように思います。
そして、そう感じる動機や理由に関しては「あなたの中には”無限の可能性”が存在していて、私は確かにその片鱗に触れたから」というのが、きっと理想的なんだろうなあと。
言い換えると、その相手の中にある潜在的な可能性に私が触れたからこそそれは敬意という形であらわれるんだと思うんですよね。
そして、実際にそこから「私はたくさんのことを学ぶことできている、たとえばこれもそうだし、あれもそう」と、具体的に例示できるような状態が一つの敬意の証だと思います。
もちろん、もっと存在レベルでの抽象的な敬意は存在するから、これはあくまでわかりやすい具体例のひとつとして、ではあります。
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で、ここで僕がいつも思い出すのが、内田樹さんがよく紹介される能の演目『張良の沓』のお話です。
最近の最所さんとのVoicyの配信の中でも取り上げた「理想の読者とは一体どんな読者か?」というテーマにもつながる話です。
ちなみに、この「張良の沓」という物語は、武芸の達人が、弟子の張良に対して、わざと沓(くつ)を落として拾わせるという逸話です。
最初はむっとしながらも沓を拾った張良は、再び同じ状況に直面し、二度目の沓を拾った瞬間に武芸の奥義を獲得する、というなんとも不思議なお話。
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内田さんはこれを「張良が学んだのは武芸そのものではなく、『武芸の奥義にアクセスする方法』だ」と解説していました。
もし張良が、「私は武芸を学びに来たのであって、あなたの沓を拾うためではない」と拒絶したならば、師匠は黙って去っていたはず。
しかし張良は、「同じことが二度繰り返されるのは偶然ではない。これは何を示しているのか?」という問いを自ら立てることで、真の学びを起動させたのだ、と。
そうなれば、あとは半自動的に弟子の方から問いと学びはドンドンと加速していく。まさに正のスパイラルがそこに勝手に起きてくるわけです。
そのスパイラルこそが、秘伝の奥義だったということです。
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で、ここで非常に大事なことは、相手が本当に師たる価値があるかどうかとかは、正直どうでも良いってことなんですよね。
つまり、本当に相手の中にある測定可能な能力やポテンシャルが実際に秘められているかどうか、重要ではない。
というか、そんなものは、実はまったくもって関係ない。少なくとも僕はそう思います。
どうしても僕らは、相手の中にどれだけ隠された知識や能力、盗み取る価値のある知恵があって、それがどれぐらい自分に活きるのかばかりを考えてしまいがち。
そして、その底が浅いと知った瞬間に落胆して、相手を見くびってしまう。
でも相手の中に学ぶことなどは何もないと勝手に見くびったのは、そんな「私自身」なんですよね。
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そうじゃなくて、たとえ相手が誰であっても、自発的、能動的な学びがそこに立ち現れてくるかどうか。
それは、私が相手に向き合う態度で100%決まる。
相手が指一本動かすだけでも、そこにはどんな学びがあるのか、そして、その学ぼうとする姿勢にこそ相手への敬意は宿るし、学びも起動する。
「学ぼう」という言葉が少し重たければ、もっともっと純粋に「相手との時間をおもしろがろう」とか「相手との時間を大切にしよう」という感覚でもいいと思います。
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これは、『宮本武蔵』の小説を書いた吉川英治の言葉である「我以外、皆、我が師」もそうだし、松下幸之助の名言「学ぶ心があれば、万物すべて我が師である」にもつながる話だと思っています。
これらの言葉が意味する、本当の核心部分はその姿勢と態度の話、それ自体が一番秘伝の奥義なのだということ。
言い換えれば、秘伝の奥義にアクセスするための方法それ自体が、そのまま「秘伝の奥義そのもの」でもあったという驚愕な事実です。
よくある少年漫画のお決まりの展開、お宝を手に入れようと躍起になってみたら、結局そのお宝は宝箱の中には存在せずに、それを見つけ出すまでのプロセスそのものが本当の宝であった、それこそがその宝箱を隠したひとが探し出す人間に望んでいた希望であった、みたいな話なんかにも近い。
そして、「なるほど、そうだったのか!」というその悟りは、そのまま相手への敬意としてあらわれるということです。
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逆に、相手からはもう学ぶところがないという態度が一番、相手に対しての敬意が欠けている状態。
それが、一番傲慢で、不遜な態度につながってしまう。
そのような見下した心的態度というのは、どれだけ言葉で取り繕ってみても、必ず相手にも伝わるものです。
だからこそ、相手も何か学びが得られるような行動は実践してはくれない。ここで、負のスパイラルが完成します。
「ほらやっぱり、何も学ぶことなんてなかったじゃないか」と、今度は悪い意味で予言の自己成就のような状態に陥ってしまうわけです。
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この話に関連して、「私は、あなたのことがよくわかった」は別れの言葉の話の話を思い出すとわかりやすい。
こちらも内田樹さんがよくご紹介しているお話だけれども、コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合う者たちの間でのみ成立するのだ、という話です。
「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」がコミュニケーションを先へ進める。でも、「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときに、コミュニケーションは断絶してしまう。
そして、それは恋愛の場面で典型的に示されると、内田さんはよく書かれています。
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「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、それは言い換えれば「あなたのことがよくわからない」ということであるのだ、と。
逆に、「あなたって人間がよくわかったわ」というのは愛の終わりに告げられる言葉である、と。
つまり、相手を軽視し始めたタイミング、相手のことをすべて理解したとして、学べることはないと思ったタイミングで、それまでは自然に立ちあらわれていた相手への敬意という関係性自体もまた、その瞬間に雲散霧消してしまう。
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繰り返すけれど、これは相手の中にある「測定可能な能力やポテンシャルの問題」では一切ないというところが、非常に重要なポイントです。
つまり、相手への敬意とは「私はあなたからは、まだまだ学べることがある」と信じ、その可能性を真摯に受け止めること。
いつだってそんな姿勢で他者と対峙するひとは、実際に何も学びもないと思えるような赤ちゃんからもその一挙手一投足から学ぼうと思えばいくらでも学べるし、今まさに死ぬ間際にある意識を持たないような老人からだって、学び得ることは山ほどある。
単純に自己が向き合う態度だけにかかっている。それ以上でも以下でもない。
そして、これは以前も書いたことがあるけれど、その最大の対象は「神」であり、神はいつだって「沈黙」を貫くわけですよね。
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しかし、どうしても現代社会っていうのは権威的な存在が、一体どんなメッセージを私に与えてくれるのか、そして何が私がそこから学ぶべきポイントがあるのか、それを他者よりも効率的に見つけ出す宝探しゲームみたいな状態に陥ってしまっている。
いつだって、受動的なんです。
そして、与えてもらっているうちは、喜び勇んで相手を褒めた称えるのだけれど、底が知れたと思った瞬間に見下し、離れていく。
そしてまたほかの偉い人、権威ある人、既に成功した人、そんな人々から発せられるメッセージを読み解き、その後に続け!と言わんばかりに、みんながずっと啓蒙されたがっているような状態。
それっていうのは、自由を学んでいるようで、実際には完全に自分で考えることを放棄して、「善き物語」ではなく「悪しき物語」に自ら望んで飛び込んでいくようなもの。
オウム真理教のようなカルト宗教の思うツボなわけですよね。
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以前も書きましたが、遠藤周作の『沈黙』という映画や小説もまさにそんな葛藤を描いた作品です。
本来は神も師匠も、本当に大事なことは明確なメッセージとして教えてくれるものではない。
更に厄介なことは、その沈黙に耳を澄ませるという行為というのは、基本的には「苦しみ」の連続であり、受難の連続でもあるわけですよね。
どれだけ献身的に信じ抜いてみたとしても、それ以上の苦痛や困難がドンドンと私のもとに訪れることはあり得るわけで。そのときに「なぜ神は、私に語りかけてくれないのか?」と感じてしまう。
それでも沈黙を貫いてくる「何か」に対して真剣に向き合うということが、まさに宗教的な深まりの始まりなのだと僕は思うのです。
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であれば、コミュニティにおいてもまったく同じであって、相手の中には私がいまこの瞬間に学ぶべきこと、学び得ることがあるはずだという態度で向き合うことができれば、そこに一体どんなメンツが集まろうと必ず「敬意ある空間」が自然と立ちあらわれる。
そして、それは相手の知識量や地位や役職などとは一切関係がない。
極端な話、相手の箸の上げ下げひとつとっても、学べてしまう。もちろん、「沈黙」からだって学べる。
むしろ、『維摩経』の中に出てくる「維摩の一黙、雷の如し」ではないですが、学ぼうとする者同士が集えば、相手の一黙こそ、私にとっての学び、その雷のような衝撃にもなりえる。
そんな姿勢や態度を持ち合わせているひとたちが集まっている場こそが、真の学びの空間足り得ると思いますし、これからもそんなふうに敬意が循環している場所を淡々とつくっていきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/04/21 20:42