最近よく思うのですが、本人にとっての「真実」と、客観的な「事実」の違いがあったとき、それが客観的な事実とどれだけ乖離があったとしても、本人にとっての「真実」も、それと同じぐらいとても大事にしたいなあと思うようになりました。
たとえば、Wasei Salonも、本人にとって体験的な「真実」をそれぞれに持ち寄って集まれる場所にしたい。
脅かしたり、どちらが優位かを判断したりするのではなく、ただただ、それをお互いに提示し合って、お互いに相手の感覚を「疑似体験」できるような対話空間の場をつくっていきたいなあと思うのです。
これは、先日の『気は優しくて力持ち』の読書会の中でも語ったこと。
https://wasei.salon/events/1b9d8147dae1
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言い換えると、そのひとにとっての真実が、安易にキャンセルされない状態をつくること。
それがちゃんと語りやすい場所をつくりたいなあと強く思うのです。
他者に明確な危害を与えているわけでもない限り、いや、たとえそうであったとしても、僕はそれぞれの「真実」を持ち寄って、語り合える場所をつくりたい。
なぜなら、そうやって、対話がなされたときに初めて、哲学者・西研さんがよく語られている「事そのもの」のようなものを見つけるための営みにもつながっていくと思うからです。
逆に言えば、「それはあなたの感想ですよね?」的に相手の中にある「真実」を、切り捨ててしまう態度は、むしろ「事そのもの」から僕らをさらに遠ざけてしまうように感じます。
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そんなことを考えていたタイミングで、Wasei Salonの中で『ヒルビリー・エレジー』の読書会が開催されたあとに前々から読みたいと思っていた、鈴木大介さんの『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』をオーディオブックで聴き始めました。
で、この本は前評判通り、というか前評判以上に、本当にグサグサ来る内容となっていました。
具体的には、貧困者は「働かない」のではなく「働けない」、サボっているんじゃなくて脳が動かないんだ、という話。
それがあまりにもリアリティがあって、しかもその悩みが切実すぎて、この事実を知らないで貧困者と向き合うことは、それ自体が暴力だなと思うほどです。
興味があるひとには、ぜひ手にとってみて欲しい一冊。
こういう実態というのは、ちゃんと知っておきたいなあと思うし、たとえこれがある程度は盛られた話であったとしても、それは「善き物語」だなとおもってしまう。
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じゃあ、ここで言う「善き物語」とは一体何か。
過去に何本も「善き物語」については書いてきたけれど、今日も、また改めて善き物語について丁寧に考えてみたいなと思うのです。
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その手がかりとして、最近読んでいたのが、NHK出版新書から出ている『読めない人のための村上春樹入門』という本です。
先日のVoicyで、最所さんに対して村上春樹の魅力を語ってみて、あらためて言葉にすることの難しさを感じたので、専門家はどのように解説をするのかが気になり、自分でも読んでみようと思って手にとってみました。読みやすくて、とても素晴らしい本。
で、この本の中でも村上春樹が語る「善き物語」について、とてもわかりやすく語られていました。
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具体的には、地下鉄サリン事件を引き起こした「オウム真理教」の思想を引き合いに出しながら、オウムの思想は、粗雑で単純でジャンクであったからこそ、麻原の物語は信者に受け入れられたと村上春樹は語っていると書かれてありました。
当時はそれが、多面的に物事を観察し、考えることに疲れた人々のニーズに合っていたのだと。しかし、時間をかけた観察や思考にこそ、本来は”善なるもの”がひそんでいると、本書の著者は言うのです。
少し本書から引用してみたいと思います。
視点が変われば、それまで正しいと思っていた信念が、必ずしもそうではないかもしれない、と揺らぎ始めます。他人に対して持っていた印象が変わります。信頼していた考えやシステム、または信頼していなかった考えやシステムへの見方が変わります。人間関係に対する見方が変わることで、そこに属する自分という存在に対しての理解も変わります。
このようにして、視点を複数化させ、それまでの信念や思い込みに対して新鮮な発見を加えてくれるもの、それによって世界について、その世界に属す自分についての理解を深めてくれるもの、それが村上の言う「善き物語」です。
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僕は、それを「作家と作品と読者」という関係性だけでなく、コミュニティとして、共に対話しながら考えられる、共に迷えることが、とっても大事だなあと思うのです。
そのために、様々な立場の人同士が集える空間が存在していること。
そこに、それぞれの読書を通じて得られた知識や感覚、または自分自身の体験から得られた真実を持ち寄って、それぞれの私にとっての「真実」の中から、「事そのもの」を探そうとする営みが本当に大切だと思います。
もちろん、その対話空間から、何を持ち帰るのかも、各人の自由に完全に委ねられている。
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で、これは以前もブログに書いたことがある話にはなるのだけれど、これを逆の視点から眺めてみると、それぞれの持ち寄る「善き物語」というのは、必ず生身の人間としての「語り部」が必要とされるということでもあるのでしょうね。
ちゃんと、その事実が自分ごとになっていることが、とても大事。特にAI時代には、ますますここが大きな観点であり、必須の要素となって来ていると思います。
あと、できれば、そのひと自体が自己を超越した「何か」とちゃんとつながっていること。
集合的無意識のような地下水脈とつながる、その水道管や通路のような存在になれるのは人間だけなわけですから。
さらに、もちろん、それを聞く側としての「生身の人間」の存在も、同じぐらい重要になるはずで。
AIではなく、ちゃんと受け止めてくれる生身の人々がいると思えるからこそ、その人間同士の間やあわいに生成されてくるのが、「善き物語」であり、その重層性の本質だとも思うのです。
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『読めない人のための村上春樹入門』の中ではさらに、物語の「悪しき力」に抗うために必要なのは「自ら考える意志」であると書かれていました。
与えられた正解を鵜呑みにせず、自分の目で観察をし、自分の頭で判断する。それこそが、自由を守る術なのだと。
そのうえで紹介されていた、村上春樹のこんな言葉がとても印象的でした。
小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
僕は小説家ではないけれど、この言葉に深く共感しています。
サロンを運営するひとりの人間として、できるだけ「答え」は提示せず、社会の多くを観察し、判断を急がない姿勢を持ちたいと、ずっと思っています。
答えを提示するよりも、その観察した感想を提示しつつ、「それを聞いて思い出した話があるのだけれど…」という、みなさんの声をたくさん聞いていきたい。
その「知性の本質」を活性化する場を体現していきたいなと思うのです。
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それぞれが身体性を通して獲得したそんな本人にとっての「真実」を尊重し合って、敬意を持って問い合い、決して優劣をつけたり、何が一番正しいのかと、安易に決めつけないこと。
むしろ大事なのは、その過程なんだから。逆に言えば、その対話の過程の中にこそ、真の価値は宿ると思っています。
だとすれば、それが続いていく流れだったり構造だったり、コミュニティとしての仕組みだったり、場の雰囲気や文化を丁寧につくることが、本当にとっても大事だなあと思います。
そして何よりも、それが大切であると気づいているひとたちや、理解しているひとたち同士で集って、共につくりあげようとする意欲や心意気みたいなものが一番大切になるのだと思っています。
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とはいえ、こんな面倒なことは簡単に伝わるわけがないし、どれだけ理想を語っても、すぐに現実の共同体として形になるものでもない。
だからきっと、村上春樹さんご自身も、一人淡々と小説を書いて「著者と読者の関係性」ということを良い意味で徹底してきたのだと思う。
でも、だからこそ、そのあとの時代を生きる僕らとしては、共同体としてそれらを立ち上げていくこと、概念としての正しさではなく、実践の場としてもしっかりと立ち上げていきたい。
当然、現実として実践することのむずかしさを感じつつも、でも実際にすでに、このWasei Salonの中においては、それが小さな現実として結実していきている。
このフワッと立ち現れてきている、その小さな小さな可能性をこれからもじっくりと育んでいきたいなあと思います。
それこそがこれからの世の中において、圧倒的に不足をしていて、なおかつ潜在的に求められている事柄だと思うから、です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。