先日、シラスで配信されていた以下の動画を観ました。
とてもおもしろかった!あっという間の4時間半。
このトークイベントの中で、最後に「文体」の話が語られていて、これはまさに「敬意」の話だと思いながら聴いていました。
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最近よく語られる、昭和生まれ世代と、平成生まれ世代のハレーション問題。それは「敬意」の捉え方や発露の仕方が世代によって大きく異なるというところから来ている気がしています。
たとえば、昭和世代は正しくスーツを着て、NHKの放送にも耐えられるぐらいの丁寧な言葉づかいをし、誰が見ても間違いない客観的データを用いることが、相手に対しての「敬意」だと思われている。
誰が見ても「礼儀正しい」と思える外側の共通ルールを徹底していて、それはそれで美しいですし、「私はあなたを尊重しています」というサインを、まっすぐに表明する道具(ツール)でもあるわけですよね。
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でも、もうそれだけが「敬意」じゃなくなってきているんだろうなあと思います。
むしろ、若い人を中心に、それこそが「敬意を欠く行為」だと感じられる場面が増えていることが令和の特徴だなと感じます。
しかも、そこに拍車をかけるようにAIが出てきたことによって、丁寧さがより一層「AI的な礼儀正しさ」に見えてしまう。
つまり、文体が、正しいほど逆に冷徹に見えてくるジレンマがうまれてくる。
また、それがわかっているからこそ、若い人たちは、それを必死でハックしようともするわけですよね。
具体的には、相手が求める礼儀が何かを推測し、それに合わせて自己を整形する。結果として嘘で塗り固められた「就活」みたいな儀式が生まれてくる。
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そうやってAIに対して、相手が求めている礼儀を聞き出して自分の内面とのズレに、もう完全にウンザリしているから、余計に本質的な敬意のあり方がいま問い直されているような気がします。
若い子たちからすれば、むしろガビガビの写真や映像、雑然とした部屋で撮られた整っていない生々しいショート動画のほうが、むしろ自分に対して敬意を向けてもらっていると感じる。それが今のZ世代なんだと思います。
そこには嘘がないように見えるから、です。
少なくとも、嘘で塗り固めるような“努力”が見えない。だからこそ、信じられる。令和の敬意は、そういうところから立ち上がってきているような気がします。
つまり、礼儀正しく「整えること」が隠蔽工作に見えて、「ありのままのノイズ」こそが信頼の証となる。
そんな時代に本当に求められる文体とは、一体どんな文体なんだ?ってことなのだろうなと。
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ただ、これは今に始まったことではなくて、最近、三宅香帆さんが各所で言及している福沢諭吉の言葉である「弁舌、笑顔、コミュニケーション」という三拍子は、明治時代にも似たようなズレがあったことを僕らに教えてくれている。
内容それ自体よりも、この三拍子が揃って初めて始まる「対話」がそこにはあるという視点を与えてくれていて、これも本当に素晴らしい教えだなと思います。
また、奇しくも福沢諭吉が生きた当時も、大きな時代の転換点だった。形式的な敬意と、本質的な敬意のズレがとてつもなく大きかった時代です。
そんな中、常に本当に相手に伝わる敬意とは何かを必死で問い続けていたのが、福沢諭吉だったのでしょうね。
そして、この話は、Wasei Salonの中の「敬意と配慮と親切心」なんかにも見事に通じる部分があるなと思っています。というか、僕自身が無意識のうちに福沢諭吉のことをパクっているはずです。
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とはいえ、もちろんここに反発したくなる気持ちがあることも、ほんとうによく理解できる。
形式ばかり整えて、中身が空っぽなら意味がない。内容こそが大事だ、と言いたくなる気持ちは自分の中にもあります。
でも、形式だけの敬意があれば優しさは不要だ、という方向に傾いた瞬間に、対話は断絶してしまう。
つまりこれも、レイモンド・チャンドラーの「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」に近い話なんだろうなと思います。
結局、強さも優しさも、どちらも別文脈において必要になる。そしてここで語られている「優しさ」は結局、そのひとの文体として滲み出る。
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何にせよ、時代によって形は変わるけれど、ひとは自分に向けられた敬意にのみ反応する。
「それが文体である」ということは、内田樹さんもよく言及されていることです。
江戸時代には江戸時代の敬意が、明治には明治の敬意が、そして令和には令和の敬意が存在する。メディアの形式によって大きく左右される。
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そもそも、本来、敬意というのはひどく曖昧で十人十色なんだと思います。
だからこそ逆説的に、昔は形式的な「礼儀」が重んじられていたわけですよね。
「これを『礼儀正しい』ということにしよう」という暗黙の了解として、形式的な礼儀がたくさんあったから、それを担保にしながら、お互いに一歩グイッと踏み込める。
試合前に、最初に一礼するから真剣な試合ができるみたいな話です。
何度も書いてきたように「脱帽する」みたいな話もそう。
礼儀には実用的な意味があってはいけない。ただただ、一直線に自分に向けられた敬意であるということがお互いにわかることが何よりも大事だったはず。
逆に言えば、その客観的に取り決められている「礼儀」さえ逸脱しなければ、「内心の自由」はどこまでも認められていて、腹の底ではどんな極端なことを考えていてもそれでいい、という割り切りがそこにあったはずなんです。
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じゃあ、現代の問題点は何かといえば、良くも悪くも、そんな世間の共通の礼儀作法が、まさに世間の中から完全に消失してしまったということ。
昔ながらの、礼儀を復活させようと言っても、もう不可能。
それはインターネットやスマホがない時代の話だったわけだから。
これだけ界隈化してしまい、それぞれにまったく異なる常識が通用する世の中になれば、いまさらそれを整えることは不可能。
敬語を使うことが一番敬意を逸脱する行動だと思う人たちも、世の中にはいるわけですから。言葉の時点で、もはや食い違うレベルです。
だから次に必要なのは、現代に合った新しい敬意の創出。つまり、新しい文体を、ゼロから構築していくことが求められているのだと思います。
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で、ここで少し話がそれるけれども、「AIを活用してつくったコンテンツ」を受け入れるか否かという近年よく語られる問題があります。
Twitterでは毎日喧々諤々の議論が行われているけれど、正直そんなのは、ぶっちゃけどっちでもいいなと思いながら、僕は眺めています。
いま本当に大事なことは、受け手、つまり届けようとする相手に対しての敬意や愛があるかどうか。
たとえば、冷凍食品だらけのお弁当でも、子どもがそこに親の愛を確かに感じ取れる場合もあれば、すべて手作りであっても、それは親の欺瞞というか、親のエゴだとわかった瞬間にゴミ箱行きになることだってある。
自己中心的な親で、子供への愛情が一切そこに存在しなければ、どれだけ美味しい手作りのお弁当だって食べたくないし、冷凍食品だらけのお弁当以下に成り下がることは自明。
つまり、日々のコミュニケーション、その互いの敬意の問題であり、そのときにAIを使おうが何しようが、それが徹頭徹尾、受け手への最大限の愛へと昇華されていれば、何だっていいということですよね。
でも、それが何かわからないからこそ、「AIを使っても良いのか、悪いのか」という形式レベルでの議論に明け暮れたくなるということでもあるんだとも思います。冷凍食品だらけのお弁当はアリかナシかの議論のように。
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結局のところ、『ひとつ屋根の下で』ではないですが「そこに愛はあるのかい?」ということですよね。
僕が今、なにかに取り憑かれたように「男はつらいよ」シリーズを一気見しながら、寅さんの一挙手一投足に見惚れてしまう理由も、きっとこのあたりにある。
まさに僕は、寅さんという「文体」、その他者への敬意の表明の仕方に一周まわって新鮮味を感じ取っているんだろうなあと。
「それを言っちゃあおしまいよ」は本当にそうで。内容が真理であればいいじゃないわけだから。
寅さんの魅力は「論理的には間違っているかもしれないが、文脈的には愛がある」という点に尽きるなと。
当時のインテリ階級の理詰め、その合理性こそが礼儀や敬意だと思っている人々に対して、下町労働者階級目線から実践しようとしているのが寅さんだと思えるし、それが当時の大衆にウケた一番の理由でもあるんだと思います。
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繰り返すけれど、ここに客観的な正解はない。それぞれの界隈、コミュニティごとの「敬意」の再構築求められている。
だとすれば、いま必要な新しい物語をゼロから構築していくこと。その先にある調和的感覚を、それぞれに生み出していくこと。
「あー、それは確かに敬意だ」って素直に思える関係性を問い続けて、自分たちで実践していく。
そうやって、共に歩んでいく。決して互いを排除せず、そこに橋をかけていくしかない。
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で、それを今やろうとしているのが「ゆとり世代」が中心なんだと思います。
なぜなら、その根底にある強い思いは、昭和世代の気持ちも、Z世代の気持ちも、「どちらの気持ちも非常によくわかる…!」からなんですよね。
そして逆言えば、どちらの気持ちもそれ単体では正解ではない、とも思っているのが、ゆとり世代でもある。
だから、どっちにもいがみ合って欲しくないという気持ちがとても強い。
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だとしたら、やっぱりそこに橋をかけたい。
昭和と平成、そして令和につづく橋をかけたい「Wasei」という場を掲げるこの場においても、そんなみんながお互いに「敬意」だと思えるものを淡々と探っていきたい。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2025/12/16 19:06
