先日もご紹介した心理学者・河合隼雄の『カウンセリングを語る』([角川ソフィア文庫)という本。


この本の中に、非常におもしろい記述がありました。

それが今日のタイトルにもある通り、心におさまらないことがあると、人は他者と共有したくなるというお話です。

言われてみると、誰もが実際に身に覚えのある話だと思うので、さっそく本書から少し引用してみたいと思います。

たとえばカウンセラーをやっていて、高校生がやってくる。かわいらしい顔をしてにこにこと入ってきて「こんにちは」と言うて、勉強はよくできるし、どこを見ても問題ないと思っているのに、おとうさんをむちゃくちゃになぐって骨を折ったなんていう高校生が来たりします。話を聞くと、高校ではどんな成績をとっているとか、こんなことをやっているとか、にこにこしていい話ばっかりするけれども、おとうさんの話になったらものを言わない。

「きみはおとうさんをなぐるのか」と言ったらものを言わなくなる。ほかの話をしたら話をする。にこにこして「さよなら、先生、また来ます」なんて帰ると、どうしても同僚に言いたくなる。「きょう変な高校生が来てな。どこから見ても普通なんやけど、おやじだけなぐりよるんや」なんて言いたくなるでしょう。なぜだかわかりますか。     
自分の心におさまりきらないからです。自分の心におさまらない話というのは、人に話したくなると思ってまず間違いないと思います。


これはぐうの音も出ないほどに、本当におっしゃるとおりですよね。自分自身の気持ちを振り返ってみても、強くそう思います。

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これはたとえば、少し大きめの地震があったときとかを考えてもわかるかと思います。

基本的に人間は、「世間」の人としかコミュニケーションをとらない。道行く「社会」の人は、挨拶も交わさないのが都会のルールです。

でも、ちょっと大きめの地震なんかがあると、周囲にいる赤の他人とコミュニケーションを取りますよね。「結構揺れましたね」みたいに。

これも、「大きめの地震」という自らの実存において、こころにおさまらないことがおきたからこそ、他者とコミュニケーションを取りたいと思ってしまって、無関係であるはずの「社会のひと」でも、お互いに声がけをしてしまうわけです。

そして、この本の中の続きの部分に「不思議なことに人間というのは、人と話をしているうちに心におさまってくるのです」と書かれていましたが、本当にそのとおりだなと思います。

つまり、心におさめたくて、おさまらないものを、他者と共有しようとしてしまうんでしょうね。

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これを逆の方向から言えば、普通の範囲の日常の出来事、つまり当たり前のように心におさまることは、わざわざひとは言挙げをしません。

普通じゃないこと、かつ、それが自分のこころにおさまらないことだからこそ、ひとは他者と無意識に共有をしたくなる。

で、週刊誌とかは、その人間の習性をうまいこと用いて、ネット上で意図的な炎上騒動を起こし、それを週刊誌の売上につなげているわけですよね。

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でも、ここで一つ重要なことがあるとすれば、それっていうのは、大抵の場合は今の世の中で起きていること、今の倫理や価値観の中だけで考えた場合に、心におさまらないことであるだけだったりもする。

具体的には、今の常識や普通からすると考えられないから、多くの人はそれを他人との雑談の中でついつい話題にしたくなるんです。

ジャニーズの問題も、吉本の問題も、基本的にはすべてそう。

そうやって他者と共有することで、私たちは“おさまらなさ”を和らげ、自己の経験を他者と照らし合わせることによって自分だけが不安を感じていたり、異常や孤立しているわけではないという安心感を得ることができるわけです。

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あえて昨日の投資の話なんかにも絡めると、今みたいな上昇相場の局面で、大きな口コミが生まれてくるのも、まさにそうですよね。

現代の常識から考えて、ありえないスピードで価格に大きな変化が起きれば、人は他者と絶対に共有をしたくなる。

お金の「値動き」はその反応がものすごくわかりやすくい。自らが扱ったこともない金額になればなるほど、多くのステークホルダーたちにとって、こころにおさまらない事柄になっていくわけです。

そこでうまれる口コミによって、人が集まってくるとそこにバブルも発生し、その行く末はチューリップ・バブルやドットコム・バブルのようになるということなんだと思います。

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で、繰り返しますが、メディアや仕掛ける側は、その「こころのおさまらなさ」を利用するわけです。

もちろん、それが悪いとは僕は一切思いません。あくまで人間の習性を用いたテクニックやスキルのひとつだと思います。

人心掌握に長けているひとたちというのは、そうやって現代人のこころにおさまらないことを「ニュース」にして、他人の口を自らの拡声器代わりとして使って、口コミを生み、広く注目を集めるために代用することは、決まっている。

たとえば文春がそのような手法をやめたところで、人間の性質上、また別の個人や組織が似たようなことを行うに決まっています。

それぐらい、心におさまらないことが起きれば、人間は自然と自らで考える前に、ひとはまず他者と共有したくなる。

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とはいえ、そんな自らの心におさまらないことが起きるたびに、なんでもベラベラと他者にしゃべってしまうのは、なんだか本望じゃないというふうに考えるひともきっといるかと思います。

僕も、どちらかと言えばそのタイプ。

できれば一度、自らで咀嚼をし、その意味をちゃんと考えてから発言したい。

河合隼雄さんも万が一そうやってこころにおさまらないという理由で、クライアントの秘密なんかを他者に語ってしまったら、それがカウンセラーにとってはいちばんやってはいけないことだから、細心の注意を払っていると本書に書かれていました。

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そして、だからこそ児童文学や神話を学んでいると書かれていて、これも本当に強く膝を打ちました。

再び本書から引用してみたいと思います。

私が、児童文学のことを書いてみたり、昔話のことを書いてみたり、神話のことを書いてみたりするというのは、一つは自分のクライエントの話を絶対しないためです。ただしクライエントと私とが必死になってやりぬいてきたことは、みんなに言いたい。これは言うほうが役に立つ。     
実際にこういう人が来られてこんな夫婦げんかがあって、こんな殺しあいがあってということは言いたくない。それと同じことが、幸か不幸か、神話の世界にも、昔話の世界にも、児童文学にもありますので、私のカウンセリングで体験したことをもとにして、そっちのほうを話しているのです。


ものすごく面白い視点で、本当に感動します。

なんなら、この話自体が僕にとって、今こころにおさまっていないような話だと感じているからこそ、こうやってブログにわざわざ書いて、みなさんに「共有」しようとしているのかもしれません。

歴史はもちろんのこと人文系の書籍、ドストエフスキーなどの長編文学などもそうですし、また東洋思想や日本の歴史の中でも、たとえば古事記や日本書紀、平家物語や方丈記などもそう。

そのような書物のなかには、ありとあらゆる人間の業が克明に記載されている。

これらの視点から言えば、ジャニーズの問題も吉本の問題も「まあそりゃあ、そういうことはあるよね、人間がやることだから」と思える。

単に「今」というものさしだけで見たときに僕らが驚いてしまうだけで、1000年ぐらいの単位で考えれば、何もおかしなことではなかったりする。

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もちろん、ここでいう衝撃というのは、逆の意味での衝撃だってあり得ます。

具体的には、ナチスのアイヒマンの無思想性みたいなものだってそうですよね。そのあまりの軽薄さに絶望するような感覚としての心のおさまらなさなんかもあるかと思います。

残虐さではなく「悪の陳腐さ」が心におさまらないということも確実にある。

でも、それさえも事例として知っていれば、確かにそんなことはあり得るよねと思えているはずで、自分の呆れている感情にも折り合いをつけられるはずなんです。

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だからこそ、僕は「学ぶ」って本当に大切だなあと思うわけです。

自分の心それ自体が大きくなれば、不安や怖れ、焦り、FOMOのような感情に刺激されて、そのおさまらなさを原動力とした形で、他者にむやみやたらと伝播するようなことはしなくなるわけですから。

実際、多くの書籍を読み、人間は何でもするということを理解しているひとは、何か現代倫理に大きく反するようなことが起きても、我を忘れて慌てることはない。

神話や児童文学のような何世紀にもわたって語り継がれてきているようなものの中には、人間がいつの時代も変わらずに行い続けるそんな「愚かさ」みたいなものが記載されている。

そうすると、それを読んでいるというだけで、ある種の免疫もついてきて、「まあ、そりゃあ起こり得るよね、人間だもの、世界だもの」と一旦受け入れられるのだと思います。

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もちろんこれは「だから、許して放置をすればいい」というわけじゃない。

ただ一旦受け止めないと理性的な判断もできないよね、と思うんです。

ここがめちゃくちゃ重要な視点かと思います。

一旦受け入れて、動じないために。こころをひろくするために、学ぼうよ、と。

「すごい、ひどい、ヤバい、エグい」そんな言葉を頻繁に多用している現代人の多くは、現代における非常にごく一部の「普通」というものさしや「基準」に沿って、その言葉を連発しているように僕には見えます。

繰り返しますが、ひとは、何でも実行する。それをちゃんと、こころで一旦受け止めることができるようになること、さらにそれを身体感覚としても強く実感しておくことは非常に重要なことだと思います。

ゆえに、僕はこれからも読書をし続けるし、旅をし続けるのだと思う。自分のこころの容量を少しでも大きく育てていくために。

世界で起きること自体はコントロールできないけれど、それを受け入れるための心の深さや広さ、その容積のほうは自分で意思を持って大きくしていくことはできると思うから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。