最近、Twitter上で「使い捨てのスモールビジネス」という言葉を目にしました。

「使い捨てのスモールビジネス」とは、AIの発達速度が速く、近い将来必ず置き換えられることを承知のうえで、一時的な需要を満たすために生まれてくるスモールビジネスを指すようです。

そのようなビジネスがこれからは増えていく、と。

これは、非常に鋭いご指摘だなあと思います。良くも悪くも、とても時代の機運に合わせた言葉に感じられる。

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たしかに、AIの進化のスピードがこれだけ速いと、そういう仕事のやり方が世の中に増えてくることは、もう間違いなさそうです。

で、そうなれば、その短い有効期限の間において「自分さえ良ければ」という思考回路の人も同時に増えてくるでしょう。

なぜなら、長期的な関係構築や持続可能性を目指す必要なんかはなくて、その限られたニーズの中で、短期的な利益を効率よく得たほうが得策だろうという判断になっていくからです。

つまり、そういうタイプのひとたちは決してクライアントの中長期的な未来を、一緒に考えてくれるわけではない。良くも悪くも、その場限りの関係性に過ぎないわけですよね。

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それはちょうど、毎日違う花見会場に行くみたいな話で。

たった2週間程度しか咲かない桜が、とっかえひっかえに咲き誇るから、その場その場に合わせて、とりあえずゴザを引いて花見をしよう、と。

そのときに持って行くカトラリーなんて、紙皿やプラコップで十分。

どうせ最初から使い捨てなんだから、その場限りの使い勝手の良さで構わないというような発想を抱くのが普通です。

それよりも、コスパやタイパ良く、その瞬間の場に集う人々のニーズさえ満たせればいいとなりがちですよね。

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で、現代社会においても、このようなその場限りのプラ容器や割り箸、ペットボトルのようなものが幅を利かせているように、そんなプラ容器のような仕事はこれからドンドン増えてくるし、それを販売するコンビニのような場所や人間も、これから無限に増えると思います。

当然、そのニーズもなくならないどころか、より一層増える一方です。なぜなら、その仕事を発注する側であっても、その場限りの需要を満たすためだけに発注するわけですから。

今後、社会がそちらの方向に舵を切ることがほぼほぼ確定している今、自らが一体どう立ち振る舞うのかということは、改めて今一度ひとりひとりが真剣に考えないといけないなと思ったんですよね。

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じゃあ、具体的にはどうすればいいのか?

こういう資本主義的な加速、本質からズレたスピードの変化みたいなものが起きてくると、すぐにひとは「脱成長」みたいな話をしたがる。

あとは、地方移住や田舎暮らしみたいな話。

できるだけテクノロジーや資本主義社会にどっぷりと浸かった世界からは距離を置きながら、人間本来の目的や幸福感に立ち返ろう、というふうに。

でも、僕は決して、そっち側に行きたいわけでもないんですよね。つまり、アンチプラ、みたいな話ではないということです。

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ここ数年のヨーロッパ的な環境保護のイデオロギーに当てられて、日本もアンチプラを突き進んだのが2010年代。

でもフタを開けてみれば、それはめちゃくちゃ政治イデオロギーに染め上げられていただけだったんだなあと、今になればハッキリとわかることです。

そして、環境保護や脱成長側の左翼側の内部においても、より厳しい基準、より細かな視点に終止して、最初は仲間だったはずの人間をお互いを敵認定し合いながら、本質的な解決策には一向に至らないグズグズな状態。

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つまり、資本主義のスピードに対して納得がいかないからという理由でアンチ資本主義を標榜し、なんでもかんでも「コモン(共有財産)」にすればいいわけでもないわけです。

それは、もう過去10年で人々は痛いほどに学んだと思います。

「使い捨て」に違和感を持ちつつも、すぐにそこから単純に「アンチ資本主義」に飛躍してはいけない。

そうじゃなくて、むしろ、その迷いや葛藤自体を、しっかり引き受けながら歩んでいくことに価値を見出している点に、いま大きな意味や価値があると思っています。

この生成AIの流れだって、もはや不可逆なわけですから。

ここに抗うことが、適切だとは到底思えない。もしここに抗えば、たぶんそれがいちばん自らの首をしめることになると思います。

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この点、最近、何度かご紹介している ヤニス・バルファキスの新刊『テクノ封建制』という本の中では、最後の結論部分で、以下のように「いい知らせ」と「悪い知らせ」そのふたつが書かれてありました。

少し本書の結論部分から引用してみたいと思います。

いい知らせと悪い知らせがある。悪い知らせのほうは、インターネットが資本主義を殺す資本を生み出し、資本主義を、はるかに悪いなにかに置き換えたということ。
いい知らせは、今の僕たちの手の中には、ソ連も改革派社会民主主義者たちも持つことができなかった武器があり、それを使えば新しいコモンズを再構築できるかもしれないということだ。
(中略)
人生を謳歌し自由を最大化できるようなボトムアップ型のコミュニズムを実現できる、これまでにない黄金のチャンスを手にしているということだ。


ヤニス・ヴァルファキスは、AIに限らずインターネットの仕組み全体を通して俯瞰した結果、この結論に至っているわけですが、これは本当にそのとおりだなと思うのです。

ここでその理由を詳しく語り始めてしまうと、それこそ本1冊分になってしまうので、詳細を知りたい方はぜひ本書を手にとって欲しいのですが、この「いい知らせ」のチャンスもある中で、それをどうやって形にするのか、それを真剣に、かつ非常にしたたかに考えていく必要があるんだろうなあと思います。

そのときには決して「アンチ資本主義」になりすぎてはいけない。

最終的には、みんなの共同財産にしていくというような「コモン」の道は正しくても、そこに到達するためには、相当な試行錯誤が必要であって、安易にまっすぐ進んだら、すぐに資本の闇や新たな封建制に搾取され続けて、ゲームオーバーになることは目に見えているわけですから。

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とはいえ、「こりゃ、どうしたもんかな」とも同時に思うんですよね。もうお手上げかな、と。

だって、そうは言ってみても、その具体的な方法はまったくわからないのですから。

妄想はいくらでも可能であっても、実現可能性が高い話は何一つ存在しない。

でも、開き直るようですが、本当に大事なことは、そうやって「迷いながら、普通に生きていく」ってことだと思うんですよね。

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この点、数年前に観た100分de名著『道元 正法眼蔵』の回で、解説者ひろさちやさんが語られていた言葉が、僕は今でも忘れられません。

「『迷ってていいんだ』というのが悟りであり、『迷っちゃダメだ、迷っちゃダメだ』と悩んでいるのが、本当の迷いなんだ」と。

そして、鎌倉時代の禅僧・道元は「悟りを得るために修行する」のではなく、修行そのものがすでに悟りである、と説いているそうです。

つまり、煩悩を消して悟りに至るのではなく、煩悩を抱えたまま修行するその実践の中にこそ悟りがある、という視点を持っていたのだと。

これは本当に目が覚めるような話ですよね。

迷いや煩悩を嫌わずに、それすらも仏道を歩む中にあるものとして引き受け、他者を救おうとする心が菩提心だと道元は説いていたんだというような趣旨のことを語られていて、今でもそれが本当にとても強く記憶に残っています。

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で、だとしたら、僕らもこの迷いの中にいる時点で、既にひとつの悟りの状態にあるとも言えそうです。

それを「迷っちゃダメだ」と言いながら、AI推進派か?脱成長派か?、そのどっちかに振り切られければならないという思いそれ自体が、本当の悩み、そして迷いにつながってしまう。

そうじゃなくて、人類が未だかつて出会ったことのない全く新しい技術を目の前にして、迷いながら、普通に生きる。

その普通を問い続けるということのむずかしさに対して、ちゃんと向き合いながら、ド真剣に悩むことが、現代を生きる僕らの本当の修行だと思うし、「道」を歩むということでもあるのだと思います。

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最後は、少し仏教的な方向に話が行き過ぎてしまいましたが、何にせよ「使い捨てのスモールビジネス」が蔓延りつつある現代だからこそ、逆説的に「問い続けながら、共にいられる空間」がより一層求められるようになるんだろうなあと思います。

で、そのためには「短期的な『ニーズ』でつながらない」ということも非常に大事だと思います。

「ニーズ」でつながった時点で、そのニーズが変更されてしまえば共にいる意味もなくなるし、なんならお互いが商売敵になる可能性だって非常に高くなる。

それよりも、何の利害関係もなく、共に花見に行くような仲間であれること。

そのときに、花の美しさを楽しみながらも同時に、「本当にここにある器や食器ってコレで良かったんだっけ?本当は何が理想だったんだっけ?」と花見を楽しみながらも、共に深いところまで考えられるような関係性。どんちゃん騒ぎで終わらない関係性。

そうやって、つながり続ける中で静かに問い合える関係性こそが、これからはより大事な関係性になってくるなあと思います。

先日の「アニメ」の話なんかも含めて、そのようなコミュニティの文化観や宗教観のようなものを大切にしながら、問い続けるコミュニティの重要性がこれからますます増してくるんだろうなあと思っています。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。