近年、いたるところで好意的に語られるようになってきた「自分で自分の機嫌を取る」ことの重要性。

僕も何度かこのブログで似たようなことを書いてきました。

ただ、これはやり方を間違えると、自分の中に存在する「自分らしくない内なる他者」を断罪し、排除することにもつながりかねない。

今日はそんな紙一重のお話を書いてみようかと思います。

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たとえば、「お家時間」消費。

コロナ以降、ますますトレンド化してきているように思います。

外に出て「人に見せる」ための消費をしているわけでなく、あくまで部屋の中を充実させる「私自身の機嫌を取る」ための消費であり、

他者に媚びていないという理由で「私らしい」あるべき姿としてポジティブに語られることが多いです。

でも、これは見方を変えれば、家の中でさえも「アイデンティティ消費」をしてしまっているとも言えそうです。

しかもそれは、自分が自分に対して見せつけるためのアイデンティティ消費。

つまり、あまりにも「自分らしさ」を追い求めた結果、「自分らしくない」私に対して、家の中でさえも耐えられなくなってしまっている証でもある。

InstagramやYouTubeの世界で見る「あのひとたち」と同じようなお家時間を過ごせていない「この私」に耐えられない。

そんなのは決して私らしくはないのだ、と。

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でもそれって、自己のなかに存在する「内なる他者」の排除につながってしまっているように思うのです。

具体的には、怠惰な私、だらしない私、 幼稚な私、わがままな私、臆病な私、大胆な私、もちろんそれらを全て「自分らしくない!」と断罪しようとしている私もそうです。

「こんなの私らしくない!」と断罪して自分から排除しようとしている「内なる他者」にもしっかりと寄り添い、理解し、共生しようとすること。

そうやって自己の中に存在するさまざまな「内なる他者」に寛容になっていくことが、自己の生きやすさにつながっていき、結果的には社会(他者)に対しても寛容になることができると思うのです。

なぜなら、自分の中にいるさまざまな異なる人格を許容できるからこそ、自分以外のほかの人間に対しても同様のアプローチを辿って寛容になれるのだから。

逆に、たったひとつのこの「自分らしい私」以外は認めないという場合においては、自己の「内なる他者」を断罪し排除するようにして、社会の中に存在する他人も同様に断罪し排除しようとしてしまう。

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「自分の機嫌を自分で取るために」と言いながら、自己の「内なる他者」まで排除してしまっていないか。

それが自分の首を自分で絞める一番の原因だと僕は思います。

SNSやメディアの変化によって、お家の中までアイデンティティ消費が入り込んできている今のような時代だからこそ、自己の内面を振り返りながらゆっくりと考えてみたいことのひとつです。

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