最近、若い子たちも共感ではなく、共鳴という言葉を使うようになってきた。
この変化に対して、個人的には結構驚いてます。
たとえば、先日開催されたIKEUCHI ORGANICさんの72周年イベントでも、20代前半の方々が、何度も「共鳴」という言葉を用いていた。
Wasei Salon内でも、共鳴という言葉選びをする人が増えた気がするし、その言葉選びによって伝えたほうが、明らかに目の色や食いつき方が変わる人も増えたなあという印象です。
これは、一体なぜなのか。今日はそんなことを丁寧に考えてみたいと思います。
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まずは、なぜ近年「共感」という言葉が嫌われ始めてきたのか。その変遷から考えてみたい。
過去十数年、SNSの発展により、極端な意見が飛び交い、何もかもが二項対立の構図で語られるようになりました。
正義と悪、賛成と反対といったような単純化された対立軸の中で、「共感」という行為もまた、ある種のポピュリズム的な道具になってしまったわけですよね。
特にTwitterを見ていると、「正しい意見」に対して共感を示すことが、まるでリアリティーショーの一部として消費されるようになっている。
正義を掲げて、怒りを煽るようなコンテンツが拡散されやすくなり「怒りポルノ」とも言われるような現象が起こっている。
先日、佐々木俊尚さんがVoicyの中でも語っていましたが、一方的な正義の視点から語られる話は、それがどれだけ正しそうな話であっても「怒りポルノ」に近い中毒性を持ち、社会全体に対しては悪影響を及ぼしてしまう。
この現象に対して、僕らは無意識のうちに違和感を覚えていて、短絡的な「共感」を拒絶するようになってきているのではないでしょうか。
特に、今の20代前半くらいの世代は、哲学や倫理なんかを深く学ばずとも、現代社会の構造を直感的に理解し、その絶望感のようなものを既に感じ取っている。
だからこそ、彼らは「共感」よりも「共鳴」という言葉を選び始めているのかもしれないなと。
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あとは、トランプが大統領に就任した以降、アメリカの大企業がドンドンと手のひらを返している現状を踏まえて「ポリ」が変われば「コレ」が変わるという話もここに通じるなあと思っています。
今までは、民主党的(リベラルエリート)なものが「ポリコレ」だけれど、これからはポリコレが真逆になっていくわけです。
このような場面において、ちゃんと潮目を読んで手のひらを返したほうが、大企業としての延命率も高まるし、経済的な豊かさもしっかりと享受できる。
でも、それゆえに、こういう局面ほどこれまで自分の信念で語っていたのか、それともただただ潮目を読んで、経済的豊かさのためだけに、スーツにSDGsのバッジを付けていただけなのかが見分けられる。
「潮が引いて、初めて誰が裸で泳いでいたのかが分かる」というあの感覚にも近いなと思います。
ポリティカルな変化を肌で感じながら、どう立ち回るか、あるいはどういう姿勢でいるべきかを今多くの人が考え始めているタイミングがまさに今なのだと思います。
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そんな中、トランプが用いた「オルタナティブ・ファクト」という言葉に象徴されるように、現代社会ではどこにも「正解」が存在しない世界観が示されているわけです。
あらゆる価値が相対化されて、何が真実かを決めるのは個々の視点次第、という状況になってしまっている。
かつて「知性」は「自分の考えを一旦括弧に入れて、相手の興味関心に寄り添う」という姿勢であったはずにも関わらず、今や従来のポリコレの反動で、それすらも軽視されつつある。
自分の考えをカッコに入れないまま「それはあなたの感想ですよね?」と言い返すことが賢い言動だと思われてしまっている。
実際に、それはその通りなんです。
ポストモダンという世界では全てが相対化されているわけですから、極端な偏見や陰謀論も「非常識」の範囲を出ない。
だから、「非常識であることの許容範囲」が人それぞれ異なり、どこまでを常識として受け入れられるかの基準さえも、バラバラになってきている。
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このような「どっちもどっち」である時代の上で、さて僕らはどうするのか?が問われている。
最近、オーディオブックで聴いている橘玲さんの新刊『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』がまさにそのようなお話から始まるような書籍でした。
ここで合わせてご紹介をしてみると、ものごとを瞬時に判断すれば、膨大なエネルギーを消費する脳を活動させるコストは最小限で済む。そのために、わたしたちヒトは進化の過程で、面倒な思考を「不快」と感じ、直感的な思考に「快感」を覚えるようになったのだ、と。
そして、すべての対立を善悪二元論に還元することは、いわばヒトの“デフォルト”なんだと、橘玲さんは語ります。
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ところが現代社会では、簡単な問題は、すでにあらかた解決されている。
そして、世界は単純な善悪二元論でできているわけではない。でも、「複雑なものごとを複雑なまま理解する」という認知的な負荷に耐えられないひとは、このことを頑として認めようとはしない。
シンプルに落とし込もうとして、結局、善悪二元論にたどり着くか、全てを相対化するか、そのどちらかを選ぶ。
でも、前者を選べばさらに危機的に分断が深まり、後者を選ぶと社会が液状化してしまって不安定になってしまうわけです。だから、究極は、どっちもどっちで、行ったり着たりをするしかない。
この善悪二元論と、全てが相対化される世界、その許容限度に対しての各人の「揺れ」に対して、共感を示す態度、それが「共鳴」という言葉に置き換わっているということなのだと思います。
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つまり、ここまでの話を一旦まとめてみると、共感というのは善悪二元論で繰り広げられる意見、その「一点」に対しての賛同という意味で、これまで用いられてきたわけです。
でも一方で、共鳴は、それとは大きく異なる。
もっと深い部分の、その善悪それ自体ではなく、善悪どちらもあると認めたうえで、そのあいだの葛藤や揺らぎそれ自体に共感を示す態度。
つまり、点ではなく、揺れ動く運動への共感を「共鳴」と呼んでいるんだろうなと思います。
どっちもどっち、振り子運動をしているだけであって、そのうえで何をどこまで選び取るのか、そのときの矜持や視座のようなものに人は共鳴をしている。
だから僕は、それを「共振」という言葉にも置き換えられるなと思ったわけです。
共鳴が単なる意見の一致ではなく、揺らぎそのものを共有することだとすれば、それはまさに「振動」の概念にも近くなりますからね。
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ある人の揺らぎが別の人の中で響き合い、それがまた違う振動を生む。
実際に、比喩だけではなく、以前ご紹介した養老さんが教えてくれた「ホイヘンスの振り子時計」の話も、まさにそういう話でしたよね。
そう考えると「共鳴」のほうがより動的で、有機的なつながりを生む言葉としても、しっくり来るような気がしています。
少なくとも今の時代感にはめちゃくちゃ合っている。
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その振り子の幅だったり、速度だったり、いろいろなものが、人それぞれで大きく変わってくるわけですから、何に共鳴するかもひとそれぞれなわけです。
その共鳴によって改めて集い合わないと、世界がポピュリズムや全てを相対化するような論理に巻き取られてしまいかねない。
もちろん、善悪二元論の二項対立の地上戦から、さらに抽象的なイデオロギーを掲げて空中戦に移行するひともいれば、だからこそ、地下だとなってさらに地下二階まで降りていく人もいる。
僕らは、もはや、ここで深くつながり合うしかないということなんでしょうね。
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ちなみに僕が、「共鳴」という言葉をよく使い始めるようになったのは、同じく養老孟司さんの『ものがわかるということ』という本の中で、共鳴という言葉選びにグッと来たからです。
本書の中で、養老さんは「わかる」の根本は、共鳴だと言います。
改めてあの本の中の「あとがき」部分から少しだけ引用してみると、
共鳴とは、二つの固体の固有振動数がたまたま一致したときに生じる、日常的には一見不思議な現象です。共鳴はむろん意図して生じるものではありません。しかも無限の中の一点です。(中略)「わかる」ためには、意識や理性を外す。ここまでくると、ほとんど宗教の世界になりますから、もうやめます。合掌。
最後に「合掌」と書かれてあるように、これは実は「宗教の世界」とものすごく密接に関わる話でもある。
つまり、科学だけでは語りきれない話でもあるのだろうなあと。だからこそ「宗教性」のような概念も、これからは大切にになってくるんだろうなと思っています。
何はともあれ、共鳴や共振の感覚がここから更に重要になってくると思ったので改めて、今日のこのブログにまとめておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。