日本人は、自らの願望を他者に伝えることが非常に苦手です。

それは以前も書いたように「他人に迷惑をかけてはいけません」という規範意識が自分の中に根深く存在しているからなのでしょう。

参照:日本人全員の中にある「他人に迷惑をかけてはいけません」という呪いと、その功罪。

「自分の欲望=他人の迷惑」と強く思い込んでいるフシがある。そんな自制心ばかりを幼いころから鍛えられてきているから、ある意味では仕方のないことだと思います。

では、どうすれば自己の願望を他者に率直に伝えられるようになるのでしょうか。

アメリカ人のように「個人主義」となって、自己の主張を明確に伝える訓練をすれば、少しずつでも変わってくるのかもしれませんが、そのような変化はすぐには起こらないでしょう。

だとすれば、私の中に既に存在する「他人に迷惑をかけてはいけません」という規範意識を、うまく逆手に取ればいいのだと思うのです。

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具体的には、自分ひとりの願望ではなく、ここでもし私が引き下がったら他人にも迷惑がかかると思えるかどうか。

ここでいう他人とは、顔が思い浮かぶ明確な身内や仲間というよりも、もっともっと大きな共同体としての「他人」です。

たとえば、アメリカの黒人解放運動のために立ち上がったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのように。たとえば、性差別の撤廃のために立ち上がったルース・ベイダー・ギンズバーグのように。

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ただ一方で、ふとインターネットに目を向けてみると、そんな義憤に駆り立てられて毎日毎日ひたすら何かに怒っているひとたちもいます。

彼らの行動も、きっと自分の中では大きな共同体の代表だと思い込んで、毎日のように怒号を飛ばしているのでしょう。でもその様子には、どこからどう見ても違和感がある。

じゃあ、その違和感とは一体何なのか。

ここで思い出すのは、過去に何度もブログでご紹介してきた稲盛和夫さんの言葉「動機善なりや、私心なかりしか」です。

ここでいう私心とはつまり、「私の中に消費する心があるか否か」であると言えるのではないでしょうか。

私の願望の中に少しでも「消費する心」があれば、それはきっと踏みとどまったほうが良いと僕は思います。

でも、多くのひとは「消費」する心があるかどうかを判断することさえもせず、反射神経的に反応してしまう。

そして、もし仮に少し踏みとどまって考えてみたとしても、大半のひとは「とはいえ、自分もこれだけ我慢しているんだから」とか「ちょっとぐらい消費してもいいだろう、みんなやっていることだし」と、何か「ご褒美」的なニュアンスで論争を次々に消費していく。

そのときに「あっ、これは消費(私心)だ」と思ったら、周囲の人々がどれだけ目くじらを立てて怒っていたとしても、自らはスッと身を引くことが賢明なのだと思います。

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一方で、しっかりと踏みとどまって熟慮を重ねた結果、「これは私心ではなく、動機は善だ」と思ったら、そこからはもう一歩も引かないことです。

自己の願望を他者に、そして社会に対して明確に伝えたほうがいい。

周囲が「それはおまえのエゴだろ!」と騒ぎ立てたとしても、自分の中で考え抜いた結果、この動機は善だ、より大きな共同体に資する行為だと判断したら、決して踏みとどまってはいけない。

だって、それは”他人”に迷惑をかける行為なのだから。

そこまで辿り着いたら、それはもう私だけの願望ではない。西郷隆盛を筆頭に、昔のひとはそれを「天命」と呼んだのだと思います。

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この「天命」を見定める選球眼と、「私心がないかどうか」と自己と対峙する時間が本当に重要だと思います。

世間に流されているあいだは、これは絶対に不可能です。ひとり静かに自己の内面と向き合うしかない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。