先日、こんなツイートをしてみました。


いわゆる「青い鳥探し」を一通り終えると、今度は「自分」を規定しているものは何かと「自己の相対化」が始まります。

社会構造とか人間心理とか、環境要因、偏見、バイアス、歴史や宗教などに興味を持ち始めるひとが多いように感じる。

つまり、自分探しの「自分」という対象が「世界」まで広がり、自分を規定しているこの世界を自分探しの対象に変えて探っていくわけですよね。

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そうすると今度は、旅先の土地に暮らしているひとたちにとっては、当たりまえ過ぎてまったく見えてこない部分を、勝手に探り出していくような行為になっていく。

でもそれは、ものすごく大きな危うさも秘めているなあとも思うのです。

それまでは、その土地に暮らすひとたちが何も意識していなかったかもしれないし、意識していなかったゆえに、絶妙なバランスを保っていたものかもしれないことだから。

「あなたたちを規定しているものは、もしかしたらこれですか?」「あなたたちって、こういうモノやコトを大切にしているひとたちですよね?」って勝手に言語化して、その作業から「自分(たち)ってこういうひとなんだ」という理解につなげていく。

ゆえに、以前書いたように、その取材する過程において「畏怖と敬意」は絶対に必要になってくるし、編集や伝えるという作業は、本当に諸刃の剣なのだなあと思います。
一方で、開き直るようですが、これって決して避けられるものでもないよなあとも思っています。

生きていることが「取材」そのものだと解釈をすれば、このハレーションを避けることは、生きることそのものを拒否してしまうことと、同義だとも思える。

参照:生きるとは、常に「取材」し続けること。

このハレーションが嫌だったら、そもそも生まれた瞬間に死んだほうがいいのかもしれない。少なくとも僕はそう思います。

これが「万人の万人に対する争い」につながっていっく諸悪の根源だと言ってしまえば、「人間は戦争を避けられない」ということも一面では真実なのかもしれないとさえ思います。

そして大抵の場合、この絶対に避けられない葛藤に耐えられなくなって、どちらかに振り切ってしまうひとが多い。

具体的には、もう何度も何度も擦られた何の当たり障りのない表現をテンプレート的に繰り返すだけの人生を歩むか、

ズケズケと土足で踏み込んで行って、とにかく読者やフォロワー、国民の欲望に忠実(奴隷)になって、他者の欲望を印籠のようにかざし、お金をばら撒いて、その土地を踏み荒らしていくか、の二択です。

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そんな葛藤に負けてしまうような取材と表現だけは絶対にしたくない。

いい意味で「やんちゃな取材」を続けたいですし、そんな畏怖と敬意を忘れないやんちゃな人たちが、しっかりと独立していけるような世界観をつくりたい。

参照:やんちゃなひとを支えられる空間をつくりたい。

両極のダークサイドに落ちないための共同体(コミュニティ)のひとつが、僕にとってはこのWasei Salonでもあるように思います。

参加しているメンバーひとりひとりが、どれだけ孤独な取材と創造を繰り返したとしても、このブログに何度も書いてきたように、「共に生きる」というスタンスだけは忘れたくないですし、実際自分にとってもそれが大きな心の支えとなっていることは間違いありません。

参照:本当の安心安全とは、決断を迫らずに、共にいること。 

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「私たちの”はたらく”を問い続ける」という言葉に込めた想いも、まさにここにあるように思います。(もちろん後付ですが)。

お互いが人生を通じて行う創造や表現に対して、また別の人間の新しい創造や表現の勇気につながっていくように。その歩みだす一歩における大小は関係ありません。

それが本当の意味での「自律分散型組織」なのではないかとも思っています。これからも、そんな空間を全力で目指していきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんの何かしらの参考となったら幸いです。