先日、日経平均株価が過去最高を更新したというニュースに合わせて、テレビやラジオ、YouTubeライブなど各種の報道機関がどのように報じていたのか、いろいろとザッピングして眺めてみました。

すると、そこで強く感じたのは、解説しているひとたちが軒並みご高齢の方々で、1989年の当時の最高値を、社会人として経験したひとたちであるということ。

そして、当時の熱狂を昨日のことのように思い出しながら、まさに自らの青春を懐古しているような感じで語っている場面が非常に多いということです。

僕は当時まだ1歳で、全くその時のことを覚えていない側の人間なので、一緒に思い出す光景が自分の中には一切存在していない。そのため、余計にその懐古する様子が、完全に心ここにあらずの状態で語っているように見えてしまい、まったく地に足がついていない印象を強く受けてしまいました。

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自分たちが生きている間には、もう見ることができないと半分あきらめかけていたというひとたちが、もう一度ワンチャンあるんだと期待し、再びマーケットや経済の分野に強く期待しているような感じといえば、わかりやすいでしょうか。

彼らも既に大御所のポジションであるわけだから、そんな発言権があるようなおじいちゃんやおばあちゃんたちが、結局また「バブル前の日本に戻ろう!」みたいな話、経済中心主義の旗印を掲げかねない。

というか既に、掲げ始めているように思います。

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で、それは端的に一体どうなんだ?と思ってしまいます。

というか、それじゃダメじゃないかと僕はシンプルに思うんですよね。

そうなってしまったら、一体何のための「失われた34年」だったのかが、まったくわからないのではないか。

しかしきっと、今の勢いや景気の感じだとそうなってしまう確率はかなり高いような気がしています。

そして良くも悪くも、実際に結果が数字としてハッキリと出てしまうだろうし、グローバルマーケットにおいても「やっぱり、日本すごい!」という話になっていくシナリオは十二分にありえるなあと。

でも、それだとまた結局、同じ轍を踏むことになってしまうのではないか。

何か具体的な答えがあるわけではないけれど、この問題提起が、今日のブログで一番強調したいところです。

なんというか、それぐらい「経済成長の魔力」や「お金の魔力」は強い。それにどうやって僕らは抗うのか。

誰もこのような状況を問いとして掲げていないけれど、意外といま大事な論点だなあと思っています。

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ただし、ここでくれぐれも誤解しないでいただきたいのは、僕は今の好景気やその予兆が見えてきた日本経済に対して、水を差したいわけじゃない。

つまり、日本の景気が良くなること自体は、決して否定しているわけではないということです。いうまでもなく僕自身は脱成長論者でもなんでもない。

むしろ個人的な意見としては、これからもドンドン経済成長をしていって、世の中にAIが広く浸透し、さらに無人化も進んで、その結果として生産性が向上していくことが、人口減少をしていく日本の本来の目指すべき未来だと強く思います。

それこそ以前も語ったように、世の中がドンドンと「便利」になればいいと思う。

その便利に合わせて、個々人が自分で考え抜いて、自らが理想とする「豊かさ」を追求すればいい。


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でも、繰り返しになりますが、そうなっていく過程で、バブル前の価値観や文化観に戻ってみても仕方ないと思うんですよね。

具体的には、大企業中心となり、また年功序列の価値観が復活したり、男尊女卑の価値観が復活したり、さらにはローカルと都会の格差がより一層広がるなど、この34年間で昭和のバブルの負の遺産として問題視されてきたことが、また勢いに任せて見過ごされるのはあってはならないように思います。

せっかく、経済成長が鈍化したことによって、それらの問題が平成という時代のタイミングで見事に顕在化されたわけだから。

この国は、地震が起きたエリアであっても、過去の反省はすぐに水に流してしまい、そのまま以前とまったく同じように復興しようとする国だから、割とこのシナリオは十分にあり得る話だと思います。

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だから、当時の青春時代を思い出してしまっている人たちに対して、それでも「若い人たちに任せる」という気概を持ってもらうためには、一体どうすればいいのか。

その答えは、僕もまだわかりません。

ただ、今日の話に関連して思い出したのは、養老孟司さんの『真っ赤なウソ』という本に書かれていた内容です。

養老さんは、若い人に対して社会的役割を与えないという社会が続いてしまっている理由を語る中で、第一次世界大戦がなぜ起きたのか?という持論を語ってくれていました。

「なるほど、第一次世界大戦はそのような解釈もできるのか!」と強く膝を打った内容だったので、以下で本書からの少しだけ引用してみたいと思います。

年配の人が、若い人に城を開け渡さなくなったんだなあと私は思ったんです。若い人が急激に増えてきた時期というのは、じつはヨーロッパでいえば二十世紀に入ってからなんです。何が起こったかというと、第一次世界大戦が起こって二百~三百万の若い人が死んだわけです。あれは多分組織的に若い人を抹殺したんだなと思います。この状況を既成の事実として社会的な秩序としたら、とんでもないことになります。人間っていうのは、暗黙のうちに無意識の動機で行動するものですから、非常に危険です。


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なんだか物騒な話ではあるけれど、これは一理あるんだろうなあと思います。

今回も、自分たちの城を明け渡したくないから血気盛んなうるさい若いひとは戦場に送って減らしちゃおうぜ、という話にもなりかねないなと思う。

それこそ、今回は生成AIの登場によって、ホワイトカラーが一気に不要になる未来もあるわけだから。ものすごくわかりやすい椅子取りゲームが始まる。

戦争って、そうやって人口を調整したいときに無意識レベルで自然と立ち現れて来てしまうものでもあるんだろうなと。

だから、もし若者と高齢者が経済成長する場面において対立してしまったら、その口実として、戦争のようなものが用いられる可能性を秘めている。

少なくとも、それを交換条件のようにして、カードを切る素振りは見せられそうですよね。

「日本はちゃんとこれだけ経済成長をしていて、君たちが戦争に向かわされるのも嫌だろう?だったら、昔ながらの昭和世代の価値観を良しとせよ」みたいな。

もちろん、これはかなり極端な例ではありますが、その中間ぐらいのことは起こりうるはず。

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景気が良く、イケイケドンドンの状態になっているときほど、意外と危ういのではないかと思っています。お互いかなり強気ですからね。

実際、今回のラストチャンスをもう決して逃してはならないと躍起になっているご年配の方々は経済界にはかなり多いはず。

繰り返しますが、なんたって34年ぶりですからね。

僕らの世代はまだわからないけれど、高齢者たちからすればここを逃したら、本当にもう次はない。それだけは既に間違いありません。

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このときに、若い世代が「反の思想」で立ち向かってしまうと、間違いなく対立してしまうはずです。

何度も書いてきたように「脱の思想」によって、自分たちでしっかりとコミュニティを作り出し、そこで価値を淡々と高めていくこと。それが本当に大事だなあと改めて強く思わされます。

そして、脱の思想で構築されたコミュニティのなかに、緩やかに従来的な成長を待望する高齢者の方々も楽しく愉快に親切に、包摂していくこと。

そうやって直接実感してもらいながら「なんだ、若い人たちの理想とする文化や価値観も案外いいじゃん、悪くないじゃん」と思ってもらうことなんじゃないか。

この失われた34年の間に、自分たちが理想として思い描いていた世界をちゃんと丁寧に構築していくこと。地味に今、それがものすごく大事なフェーズだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。