今回、イケウチオーガニックさんのオープンハウスに参加したあと、前後は松山に宿泊しました。

参照:毎年続けることで、共鳴し合い、同じ方向を向いて前進できる。

その時に、たまたま開催されていた地元のお祭で、「松山道後秋祭り」。

愛媛県の松山は、とても深い歴史のある街です。

日本最古の温泉地としても知られる道後温泉なども有名で、このお祭り自体も十七世紀の松山藩政時代ごろから行われているそうです。

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で、このお祭りは、神輿と神輿をぶつけ合うことから、別名は「けんか神輿」とも呼ばれているそう。


実際、愛媛中のヤンキーやヤクザのような見た目の人たちが全員ここに集まっているんじゃないかというぐらい、担ぎ手たちがみんな非常に荒々しかったです。

こういうひとたち、未だにいるんだ、と思えるぐらいに昔ブイブイ言わせていました、という世代と、その子どもたちのZ世代が一挙に大集合していた印象。

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でも、僕が驚いたことは、そこじゃないんですよね。

祭りの会場となっている松山で一番の繁華街でもある大街道周辺が、その祭りのあいだ、治安がめちゃくちゃ良かったことなんです。

過去に観てきた祭りやフェスの中でもトップクラスに治安が良かったと思います。

警察も数人が申し訳程度に出動しているぐらいで、警備なんてあってないようなもの。

決して、地方のよくある花火大会とか、東京のハロウィンやワールドカップの時の渋谷の交差点みたいな状況にはなっていなかった。

「ケンカ祭り」と呼ばれていて、愛媛中のヤンキーやヤクザのような見た目の人たちが集まっているなら「えっ、逆じゃないの?」と思うかもしれません。

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でも違うんです。これは僕も心底驚いた。

なぜなら、普段、そういうお祭りやフェスにおいて、治安を悪くする側の全員が演者側だから、です。

治安を悪くする人たちが誰も沿道にいない。

交通整備なども自分たちの自治組織で行っているんですよね。組織の少し若いひとたちが自分たちで交通整理しているんですよね。

一見すると野蛮に見えるヤンキー文化圏の人々が、行政に頼らず見事に自律的な秩序を構築している。

これは本当に驚いた。

むしろ、ハロウィンやワールドカップの渋谷のスクランブル交差点が消費社会の末路だったんだなあと思います。そうすると、結局一番治安が悪くなる。

つまり、文明的秩序で規制しようとすると、祭り特有の暴力性や野蛮性のガスを抜ける場所がなくなる。

それでも、理性でソレを抑えつけようとするから多大なコストも掛かる。単純に警察や警備員が大量に動員する必要が出てくるわけです。

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でも、そもそもその野蛮さや暴力性が、演者側として機能している場合、その演者側のヒエラルキーの中に悪事さえもすべて内包される。

つまり、外側から文明理性に反発して騒ごうとする人たちがいなくなるわけです。

これは浅草の三社祭とかとも、また違う。

あれは下町の入れ墨入った人たちが全員集合するわけですが、東京に住む他エリアのヤンキーが来ちゃうから、やっぱり警備が必要になる。でも、これはあくまで地元の祭りだから、別の地域から別のヤンキーたちが、観にきているわけでもない。

そして、そのような地方のマイルドヤンキーのヒエラルキーに入らないような白くナヨナヨした人間たち、そんな僕らのような観光客なんかも含めて、お行儀よく周囲で眺めているだけ。

決して割り込んだり、騒いだりもしない。だって、普通に怖いからです。ニコニコと見守るほかない。そうすると一切、お祭りの交通整理が必要なくなるわけです。

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この景色を実際に目の当たりにして、「地方豪族による住民自治が機能する瞬間って、こういうことだったのか!」となんだか僕は強く膝を打ちました。

歴史の教科書で見た話、野蛮が野蛮を自己統治する構造、まさに毒をもって毒を制す瞬間でした。

あと、同時に驚いたのは、その神輿を担いでいる人たちの妻であるヤンキーやチーママギャルたちのコミュニティ、その子だくさんっぷりの様子です。

彼女たちは、ベビーカーを引いて、さらに子どもを抱っこして、もうひとり少し大きくなった子どもは手を繋いで、まだ20代ぐらいの見た目の茶髪のお母さんたちが、3人ぐらいの子どもたちを連れて沿道で旦那たちを見守っている。

しかも、日頃から奥さんどうして交流している感じの仲良さそうにコミュニティも完全にできあがっている。つまり、沿道は女性と子供たちのコミュニティで溢れている。

それが、ものすごく幸せそうな光景でした。お父さんたち(おじいちゃんも?)も、その見守れられる感じが、とても誇らしそうで町の中心を練り歩いていた。

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このような権力構造が、暴力性を圧倒的に抑制するのは目に見えている。なぜこんな単純なことに気づけなかったのか。

そして、なぜ、それを無理やり文明と金の力で、抑制しようとしてきたのか。

警察や、警備会社の力でどうにかしようとするのは、どう考えてもおかしい。

そして、これからは人口減少、行政予算は縮小されるなか、間違いなく住民自治をしなければいけないフェーズにも入ってくる。

そして、さらにAIの台頭でホワイトカラー出身のオタクたちの知性は、完全に無価値化される。AIにすべて置き換えられるわけです。

そうなると、このような「ケンカ祭り」が再び復権して、地方のヤンキーたちを中心に野生を取り戻すという流れは、割と本気であり得るなと思ったんです。

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また、地方のマイルドヤンキーを、AIが補佐することも間違いないから鬼に金棒。

それよりも「人間同士の家族のような絆・数が限られている土地・上下関係の権力構造」のほうが圧倒的に重要になる。

つまり、AIによってホワイトカラーが置き換えられるというのは、同時に地方ヤンキー文化の復権なんじゃないかというのが僕の今の仮説です。

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もちろん、このような野蛮さも揺り戻しのように見えなくもないし、実際にひとときの揺り戻しで終わる可能性もまだまだ十分にありえるけれど、今の技術の延長にあるのは、あまり語られないけれど、間違いなくこっちだなと思います。

そして、今の若い人には伝わらないかもしれないけれど、たまたま近年オタクの波が20年続いただけで。

でもそれっていうのは、大きな歴史から見れば、本当に一時のトレンドに過ぎなかったのかもしれない。

というか若い人たちには、これが揺り戻し、時代が逆回転しているとわらかないからこそ、こっちが新しく新鮮に見えてしまうジレンマもある。

僕らからはもう完全に終わったもの、過去の遺物のようなものが若い人たちには次の時代における新しさに見えても、何の不思議もないなと思います。

スマホを覗くだけでは決して得られないような、腹の底から湧き上がってくる身体性を感じている喜び、そのワクワク感を得られるわけですからね。

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統治には必ずヤクザや暴力が必要だった、とまでは言わないけれども、このような秩序もまた、地域の治安を守るためにひとつの大切な構成要素だった時代があった意味を、真の意味で理解した気がします。

東京のような都会だけに住んでいると、これは絶対にわからないことだなあと。

あと、ここも非常に大事な視点で、これも先日の「性悪説」みたいな話に近くて、人はやっぱりどこかで野蛮さのほうが人間の「本能、本性、本質」だと思っているフシがある。

参照:「偽善ライフハック」の落とし穴。 

理性のほうが後付けである感覚を誰もが持っている。

自らの皮を向いていけば剥き出しの欲望だけが残ると、多くのひとは感じているはずなんですよね。

どれだけ宗教的な観点から「そうではない」と言ってみたところで、宗教性を忘れた現代人には、そのメッセージはまったく届かない。

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そうなると余計に、このようなアジテーションしか刺さらなくなっていくんじゃないかと思います。

そして、このようなアジテーションが見事に刺さる世代が、これからの権力的中心となっていく。

逆に言えば、いま徐々に世間から退場しつつある団塊世代の理性による平和主義一辺倒は、実はものすごく時代的には稀有な産物だったのかもしれない。

そもそも、団塊世代の文明論だって、結局は時代のテクノロジーの進化的に、そのほうがお得だったから、という身も蓋もない話でしかない。

高度経済成長と、失われた30年においても、失われたがゆえに時代の中心はインターネット主流となって、パソコンの前に座る脳化社会こそがあたりまえだったわけだから。

その方向に、世の中がうまく経済的な撒き餌をして、トレンドをつくり、マスメディアやSNSで文明的なマナーを押し付けて手綱を引いてきただけ。

自分の頭で合理的に考えて、ロジカルに考えて「文明」こそが最良の手段なんて思っているひとなんて、ほんの一握り。

カントの『純粋理性批判』でさえ、僕らは自力で読むことができない。現代人の理性なんて本当にその程度なんだと思います。

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そして、これから自らのルーツを辿った時に、たどり着くのは必ず「地元性」であり、そこに眠っているのは今回ご紹介したような荒々しい野蛮な祭り。

僕らだって、本当は田舎のヤンキーのくせして、あたかも文明人のふりをして一丁前に大学なんかに入り、文明人のふりをした皮をこれまで被ってきたわけですよね。

じゃあ、なんでそんなことをしてきたのか、と言えば、そのほうがいい仕事につけると信じてきたから。そして、団塊の世代がマスメディアを通じて作り出した「平和」を無条件に信じてきたから。

でも、ローカルを少し掘れば、1950年代よりも前の日本を暴いたら、そこには野蛮さしかない。それは自分の家系図を遡ったら、ほとんどのひとたちが農家であるように、です。

「田舎侍」でさえもない無慈悲さ、そんな現実が見事に横たわっている。

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もちろん、世界のトップオブトップはこれからも文明人だとしても、その次のヒエラルキーは、ホワイトカラーから、野蛮側に大きく入れ替わる可能性は十分にありえる。

高市早苗新総理の「ライフワークバランス」無視発言なんかもまさにそう。

あれも麻生さんのようなトップオブトップの文明的権力と、高市さんみたいな成り上がり、そんな田舎の野蛮さの復権の形なのだと僕は思う。

トップオブトップたちも、AIを用いて彼らに野蛮さを解放してもらうことのほうが、理があると感じ始めている。

もともと、侍というのは貴族の身辺に「さぶらふもの」だったわけですから。まさに平安貴族と野蛮の関係。

逆に言えば、貴族自らが武器を持って戦おうとせずに、侍には侍をあてがって、源平合戦していてもらったほうが都合がいいわけです。

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同様に、現代的な”野蛮な消費”をしていてくれているほうが、これからは役立つ。

そうなったときに、ホワイトカラーの皮を被っていた人間たちが一気に寝返れば、つまりつい数十年前までは「腰パン」していた世代が、また時代の流れに迎合して”腰パン的な態度”を取り戻してくれさえすればいい。

当時から人間が入れ替わったわけではなく、たまたまそのような「分人」が過去20年ぐらい鳴りを潜めていただけで、これがきっと日本版のヒルビリー・エレジーでもあるはずです。

コロナ明けの各地の日本の荒々しい祭りの復興が、再びその号砲になっているように思います。

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自分の中の野蛮な「本性」を思い出してもらったほう都合がいいという世界は、きっとやってくる。

それに気づいているからこそ、ビックテックの経営者たちは、パンパンに筋トレして、見栄えや立ち振舞も野蛮に振り切っている。

野蛮+AIのハイブリッド。

良し悪しの話ではなく、次のトレンドは明らかにこっちだと思うので、そのようなタイミングにおける本当に大切にしていきたい倫理や道徳、社会的な規範とは一体何かを淡々と考えていきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。