以前このブログでご紹介をした、東畑開人さんのラポールのお話。
改めて簡単に要約をすると、「役に立つ」「このカウンセラーは使える」、この感覚があってはじめて、クライアントとカウンセラーのあいだにラポールは生まれてくるという話です。
詳しくは上記のブログを読んでみてください。
で、この「役に立つ、使える」というお話が、そのまま親と子どもの関係性、特に「お金」の話にもつながるなと思いました。
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というのも、最近オーディオブック化されたので、改めて聴き返していた内田樹さんの『沈む祖国を救うには』という書籍の中で「子どもと親がラポールを築けるときはどんなときか」その答えが書かれてあったからです。
内田さんは、子どもにとって「都合のいい親」になれ、と本書の中で書いていました。
早速少し引用してみます。
これは声をさらに声を大にして申し上げたいのだが、「いい親」というのは「子どもにとって都合のよい親」のことである。
今「違う」と思った人はご自身の子ども時代を思い出してほしい。10代の頃切望していたのは「お金は出すが口は出さない親」だったはずである。自分の親がそんな「都合のいい親」だったらどんなに幸せだろうと子どもの頃には思ったはずである。だったら、その子ども時代の願望を自分が親になった今実現してあげればよろしいではないか。
たしかにそんな「都合のいい親」は子どもの成長を妨げるかも知れない。でも、大丈夫である。好きに生きたって、子どもたちはやっぱりきちんと挫折したり、他の人たちに傷つけられたりして、いつの間にか人間的成長を遂げる。親が「子どもを傷つける役」をわざわざ引き受ける必要ない。
これは単純に「甘やかせる」という話とも、また違うはずで。
子供にとって都合のいい「使える親」になれ、というメッセージなのだと僕は解釈しました。
逆に言うと、金を出さないのに、口だけ出してくる親が、子どもにとっては一番最悪なわけですよね。いちばん「使えない」親で、そこにラポールなんて築けない。
でも、現代にいちばん多い親のタイプはきっと、そんな使えないタイプの親なんですよね。
具体的には、子ども自身に奨学金の借金を全額背負わせながら、なおかつ親の期待、親の思う通りの道を歩んで欲しいと積極的に口を出す。
でも、子どもにとってはそんな親が一番不愉快極まりないはずです。
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とはいえ、親も、優しくありたいとも願う。
だから、余計に優しく口出しをして、なおかつ子どもとの関係性自体も深めてしまう。
でも僕は、子どもと関係性を深めることはあまりいいことだと思えません。
この点、最近、読んでいた『Z家族 データが示す「若者と親」の近すぎる関係』という新書があります。
この本は、昭和生まれは全員必読だと思うぐらいに、現代のZ世代の子どもたちとその親との関係性を、大量のデータを用いて見事に描いてくれていて、「今、そんな状況なの!?」と目ん玉飛び出るお話がたくさん語られてあります。
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で、この本の中に「親友みたいな親子」の話が出てきます。
もちろん、本書の中でも、それはポジティブに語られている。
ただ僕は、親子が親友みたいになってくるのは、今日のこの話の後ろめたさ、その裏返しだと思います。
口だけ出されることは、子供も親も、お互いに厄介だということはわかっている。だからこそ、親は友達のように振る舞い、子供も親のことを「友達認定」したほうが都合がいいと感じる。
つまり、親は頼る存在と言うよりも「親友」に近いほうが楽だということですよね。これは防衛反応の一種だと思う。そうすれば、お互いに過度に傷つかずにもいられるわけですから。
親が「親」という役割を放棄してしまうのだから、家族ではなく「他人」として「親友」認定したほうが楽なんです、きっと。
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で、繰り返しにはなりますが、一番の理想は内田樹さんが語るように「金は出すけれど、口はださない」親がいちばん子供にとっては都合がよく使える親。
そして次点としては、金はないけど、同時に口も出さない親。
で、3番目が、金は出すけれど、口も同時に出してくる親。
で、一番最悪なのが、金は出さないのに、口だけは出してくる親。
ただ、ここで更に厄介だなと思うのは二番目の「お金がないから、自分には口を出す権利もない」と思い込み、口を出さないのだけれど、それを「ただの放置」をすることだと誤解して、子供の叱ってほしい欲さえも、同時に満たせない親の存在。
そんな親も、近年は非常に多いんだろうなと思います。
子供にとって使える親は、怒って欲しい時にはちゃんと怒ってくれること、引き止めてくれること。
この子供のアンビバレントな気持ちを理解できずに、というか理解をしつつも、完全に放置する親も、今は多いと思います。
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それはきっと、親としての役割を全うできていない、つまり「満足にお金を出せない」ということの後ろめたさの裏返しでもあるんだろうなと。
自分自身が、親の年齢になってみてよくわかる。
ちゃんとお金が出せていれば、口も出していいと自分自身で思えるのだろうけれど(その権利が親としての自分にはある)、金を満足に出せてないから、そこに引け目が生まれてしまう。
だったらせめて「好きに生きて欲しい」という思いから自制が働いてしまい、子供が叱ってほしい場面でも叱れない。そんな完全放置の親があまりに多すぎる気がします。
結果的に、子どもたちが好き勝手に「グレーな事柄」に興味を持ち、これまでの社会通念や倫理、道徳では批判されるようなことであっても、当たり前のようにバンバン手を出していくことにもつながってしまう。
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ただここまで読んだひとは、きっと腹の底ではこう思っているはず。
「そんなこと言ったって、社会全体の経済状況がこんな状況なんだから仕方がないだろう!」と。
「私だって、もし湯水のようにお金があれば子供にバンバン与えて、そのうえで口だってたさないよ」と。
内田さんも「子どもにとって都合のいい親は少ない」と本書のなかでハッキリと書かれていました。
「いないから、あなたが実践しないといけない」という厳しい視点を投げかけてくれたうえで、この話は終えられる。
でも僕は、現代でそこまで強いるのは、さすがにマッチョすぎるなとも思う。
僕も現代を生きる同世代だから、それがむずかしい事情もよく分かる。
現代は、格差社会が固定化して、階級社会になろうとしているような世の中でもあるわけだから。教育だって、ソレにかかる費用が尋常じゃない。
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一方で、内田樹さんの時代は、それがお金的にも情報的にも許される、良くも悪くも牧歌的な時代だったわけです。
そういう教育をしていても、「なんとかなるだろう」と思われていた牧歌的な時代。
でも、現代は、子どもたちを自由にしたとき、つまりスマホを与えて世間に放り出した瞬間に、女の子はガンガン整形をして、男の子はYouTuberやネットヤンキーに憧れてしまう。もしくはゲームの世界にどっぷり。
しかも、わかりやすく外部には見えない形でそれを行い、気づけばネット上で地下茎のように根を張り巡らし、気づいたときには後戻りできない状態になっている。
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で、僕はここで「だから、おばあちゃんなのかも!」と強く膝を打ちました。
今日一番伝えたいメッセージも実はここからです。
核家族ではなく「大きな家族」で包摂していた、というのはきっとそういうことだったんだろうなあと。
「子供にとって都合のいい、使えるおばあちゃん」がいることが、家族のセーフティネット。そのラポールになっていたのではないか、という仮説です。
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この点、先日、おのじさんと一緒に配信したVoicyをきっかけに「おばあちゃん対話会」をWasei Salon内で開催しました。
https://wasei.salon/events/eec05f6f084b
おばあちゃんとの良い思い出があるメンバーが8名ほど集まって、それぞれのおばあちゃんとの記憶をただただ語り合う、それだけの対話の時間です。
でもそのエピソードがどれも本当に素晴らしい時間だった。
で、今このイベントを振り返りながら、大雑把にまとめると、要は「おばあちゃんは、どれだけ自分にとって都合のいい存在だったか」という話を、みんな自分目線から語っていたように思います。
もちろん、僕もそう。
結局、おばあちゃんって幼い子どもにとっていちばん「使える存在」なんですよね。
だからこそ、そこに見事なラポールが築かれるし、なおかつそのおばあちゃんがいる空間(おばあちゃんの家)が自分にとってのアジールにもなる。
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確かに、おばあちゃんは何も要求をしてこなかった。孫がすくすくと育てばいい、願いはそれだけ。
一方で、おばあちゃんもバカではないし、子育ても二回目だから、子供の欲望も全部バレてもいるわけで。
でも、そのバレているうえでなお、すべてを受け入れながら、圧倒的に「使える存在」でいつづけてくれる貴重な存在でもあるわけです。
具体的には、わかりやすく「お小遣い」をくれたりするわけですよね。
あとは、親が禁止するおやつや食事なども見事に与えてくれたりもして、空腹も同時に満たしてくれる。
実際、対話回の中でも、お小遣いと食べ物の話が見事に語られてありました。
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つまりおばあちゃんは、食欲も金銭欲も完全に満たされたうえで、そのうえでただただ自分のことを褒め続けてくれる。
世の人々がいまネット上で喉から手が出るほどに欲している、そのすべてを与えてくれる存在が、まさにおばあちゃん。
だから、おばあちゃんとの思い出は圧倒的に良い思い出となりやすいし、それゆえに、そこに深いラポールとアジールが築かれていた要因にもなるのだろうなあと。
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もちろん今後AIが、便利なおばあちゃん的な存在を担ってくれる。AIがおばあちゃん敵役割を代替するようになることも間違いない。
でも、それは圧倒的な不気味な存在でもある、畏れる対象にはなってくれない。
老いを見せつけて、なおかつ自分よりも先に死んでしまい、おばあちゃんは過去の存在になってくれるからこそ、おばあちゃんはおばあちゃん足り得るはずなんです。
具体的には、自分が弔う側にまわり、相手は死者となり、自らの先祖となっていく。
結果として、生涯を通して、見守る存在でいてくれるようにもなる。
よくも悪くも、おばあちゃんの「祝い」が、そのまま「呪い」になる。そうなると、もう裏切れないわけです。
まさに、祝いと呪いは表裏一体。そのような精神的な重し、記憶としての重しが、「道」を踏み外さないためのひとつのアンカーになるんだろうなと思います。
おばあちゃんが「むかし話」などを通して、大事に説いてくれた人間としての「道」として、です。
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逆に言えば、道を踏み外す子どもたちは、内田樹さんが語るような、親との関係性もあるけれど、それ以上におばあちゃんが完全に「不在」なんだろうなあと思います。
で、幼い頃に、そうやって身内、家族の中でラポールをちゃんと築ける相手を持たないと、そうやって近寄ってくる詐欺師やサイコパスの餌食になる。
だって、初めて出会う「使える(ように見せかけて)」私を騙してくる存在なんだから。
だからネット上の斜めの関係、具体的にはYouTube上のオジサン・オバサンたちに見事に流され騙されてしまう。
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そう考えると、復興するべきは、やっぱり大きな家族関係なのかもしれない。
そこで築かれていた本来の人間共同体におけるラポールやセーフティネット、アジールが大事なのでしょうね。
もちろん、古いものをそのまま蘇らせても息苦しくなるだけだとは思いつつ、でもそれが担っていた役割は、こうやってすべてが崩壊していけばいくほど、余計に大切な部分だったんだろうなと思わされてしまいます。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
