私たちの”はたらく”を問い続ける対話型コミュニティWasei Salonのインタビュー企画「わたしの一歩」。今回のお相手は、コミュニティプラットフォームを運営する「オシロ」で、データ分析のお仕事をされている、かげやまりおさん(以下rioさん)。2023年7月にWasei Salonに入会し、そこからすでに一年が経つ。rioさんが入会したての頃、「小さいときから居場所に違和感を抱いていて、流れ着いて今ここにいる」と話しているのを耳にしたことがあった。
居場所と聞くと何を思い浮かべるだろうか。地域や学校などの物理的な場所、人との繋がり、自分らしく居られる時間……または、もっと違う何かかもしれない。居場所について一体どのような違和感を抱いたのか。そして現在、公私共にコミュニティに関わるrioさんだが、居場所への違和感から、どんな経緯でコミュニティに携わるようになったのか。rioさんが何かに巻き込まれる形で踏み出して来た、これまでの様々な一歩に触れながらお話を伺った。
影山 莉央(かげやま りお)
東京都出身、神奈川県在住。コミュニティプラットフォームを運営する会社「オシロ」に、インターンを経て入社。プロダクト開発部でデータ分析業務を担当し、OSIROの機能改善を行う。2023年7月にWasei Salonへ入会。読書と旅が好き。同級生と興味が合わない
—— 小さい頃から居場所に違和感を抱いていたそうですが、rioさんはどんな子ども時代を過ごしていたんですか?
幼稚園生の頃は、園庭近くにある鉄棒に一人座って、同級生たちを観察していましたね。小説を読むことだけが好きだったので、走ったり、おままごとしたりして楽しんでいる同級生のことが理解できず、別世界のように眺めていました。
小学校は親の意向により、勉強や読書に興味を持つ子が多くいる、私立の一校を受験して通いました。誰かと遊ぶことには疎かったのですが、受験勉強には楽しく打ち込めていましたね。
——へぇ、おもしろいですね。
予想もしていなかったのですが、通うことになった小学校では、頭のいい子がヒエラルキーのトップにいました。小学2年生の頃、運悪く学年のトップ4に席の前後を挟まれてしまって(笑)。グループ学習でその子たちと一緒になるたびに「こんなこともわからないの?」と小馬鹿にされていました。他にも、上履きの中に画鋲を入れられたり、物を隠されたりと陰湿ないじめもありましたね。
——わあ、そんなことが。
この頃、同級生に友達はいなかったのですが、同じ電車で通学していた一個上の先輩たちと遊んだり、習い事のダンスや体験学習に参加して共通の話題や方向性で話し合える子ができたりと、学校外の取り組みを楽しんでいました。
学校での私へのいじめは2年生の内に終わったのですが、あまりにも感じが悪かったので、3年生ではいじめっ子たちにやられたことをやり返したんです(笑)。でも、スッキリしないし、相手は気にも留めていなかったので誰も得をしないと思ってやめました。
4年生になると、今度は担任の先生がいじめの対象になってしまったんです。他の子が先生を無視したり、悪口を言ったりしているなか、私は変わらずに話しかけ、授業内容でわからないことがあったら質問をしに行っていました。
周りに合わせず過ごしていたため目立ったのか、高学年では同級生から投票を得て学級委員を任されることに。その後は、一度衝突したいじめっ子たちとも仲直りして、卒業する頃にはお互い腹を割って話せるようになりました。
自分の道があるだけ
——なかなか濃い小学校時代でしたね。中学時代はルクセンブルクの学校へ転校したと聞きました。
日本の中高一貫校に3ヶ月だけ通って、父の転勤を理由に家族全員でルクセンブルクへ引っ越しました。新しい体験が好きだったので、不安はなくワクワクしていたのを覚えています。
——お父さんの転勤が理由だったんですね。向こうで過ごしていて印象的だったことはありますか?
インターナショナルスクールに通い始め、ヨーロッパ出身の人や、そうではない地域の出身の人たちと時間を共に過ごしているなかで、些細なことから常識の違いを感じることがありました。
たとえば、噛んだガムを紙に包まずに机の裏にくっつけたり、他の人が落とした鉛筆を足で引き寄せて拾ったり。けれど海外に限らず、どこへ行っても自分と他者は違う。
日本で仲良くしていた人と強制的に違う道に進んだこともあって、自分の道があるだけなんだと思うようになりました。
——日本にはいつ戻られたんですか?
15歳の夏にインターナショナルスクールを卒業したあと、家族揃って帰国しました。でも帰国すると知ったのは3ヶ月前。少しのあいだ通っていた日本の中高一貫校に籍を置いていたので戻ることもできましたが、新しい体験から得られる刺激を求めて、他の高校を受験をすることにしました。
前々からみんなが受験勉強をしているなか、私だけが15歳の夏から始めたので、受験の1ヶ月前まで模擬試験の結果はE判定……。高校に行けないかと思いました(笑)。
——E判定。そこからどう挽回したんですか?
え〜、何があったんですかね(笑)。当時は帰国子女枠で3科目に絞って勉強していました。国語と英語は得意だったので、いつも点数は9割超えるのですが、どう頑張っても数学の点数が2割しか取れなくて。
でも受験の1ヶ月前とかになってくると、結果がどうであれやるしかないんですよね。試験で出てきそうな問題と基礎の問題をひたすら解いて、最後までできることをしていました。そしたら運良く解いたことがある問題がたくさん出てきてくれたんです。
思いがけず巡ってきた活動
——努力と運で乗り切った。その後、どのような活動をされてきたんですか?
高校では部活のダンスを頑張っていました。その後、引退して大学への進学も決まった高校3年生から、企業が主催するイベントやセミナーに参加したり、大学に入学してからは企業説明会に出向いたりして、仕事にしたいことを探していました。将来の夢や、やりたいことがなかったので就活に困るだろうと思って。
——高校3年生から。
少し話は変わるのですが、その当時、カメラで写真を撮ることにハマっていたので、試しにお仕事的な感じで撮ってみようと、ボランティアサイトでカメラマンの求人を見つけて応募してみたんです。働けることにはなったのですが、蓋を開けてみると撮影がメインのお仕事ではなかったんですよ。
——え、どういうことですか?
入った直後に「Webメディアの運営をやってみない?」と言われたんです。編集長の興味関心が地域への取材だったので、それをベースに、メディアの名前、企画内容、取材相手、インタビュー設計を自分たちで話し合って決めて、地域の一次産業やまちづくりに関わる人たちの生き方や、仕事の根幹にあるものを聞いて記事にしていました。
5年間ほど続けましたが、主に活動していたのはコロナが流行る前の高校3年生から大学2年生までです。
——予想していた仕事内容ではなかったのに、どうして続ける気になったのですか?
その頃は、本気で取り組んだ部活動や勉強に区切りがついて燃え尽きていました。生きる意味を見出せなくなっていたんですよね。今いなくなってもいいのかもしれないけれど、もう少し生きてみるか、と生きる理由を作るために未来に予定を作ろうとしていました。
そのなかで見つけたのがこの活動でした。写真はきっかけではあったのですが、取り組むものは何でもよかったのかもしれません。ただこの世にとどまる理由を作りたかったんです。
——生きる理由を模索されていたんですね。地域で活動されている人たちを取材をされていかがでしたか?
個人で活動をされている人たちが自分と同じ歳くらいの歳に何を考えていたのか知りたくて、「17歳のとき何していました?」という企画を立てたことがありました。
取材を通して、お茶農家さん、住職の奥さん、ブルーベリー農家さん、他にも複数の活動を持ち、わかりやすい肩書きがない人など、様々な活動をされている人々に出会いました。そのおかげで自分の生き方に対する認識が変化したように思います。
自分はこの先就活に困るだろうと思っていたけれど、もう少し気楽に構えていてもいいのかもしれないと、肩の力が抜けました。
——その後、就活はどのように進められたんですか?
たくさん企業説明会にも参加したのですが、行きたい企業も、仕事としてやりたいことも、結局見つかりませんでした。けれど、卒業してからフリーランスになるのも想像できなかった。
どこかに就職することになるんだろうなと、エントリーシートを出したり、面接を受けたりしましたが、やる気がなかったせいか全然受からなくて(笑)。
仕事でやりたいこともないし、今はいいや、と思って、大学3年生の秋頃に就活は止めました。
まだ知らないコミュニティの価値や世界を見てみたい
——でもその年の11月、オシロにインターン入社したそうですね。
一緒にWebメディアの運営をしていた一個上の友人が、オシロに就職する前提でインターンを始めたんです。社内でデータ分析業務を行いたいという社員が、忙しくてその業務に手が回らなかったそうで、インターンを新たに募集することにしたんです。
そこに友人経由で誘われたのが私でした。データ分析の経験はありませんでしたが、やったことがないことをやるのが好きでしたし、ちょっとしたお小遣いが稼げたらいいなと、気軽な気持ちでお誘いを引き受けました(笑)。オシロに就職することになるなんて、全く予想もしていませんでしたね。
——おお、そういった経緯だったんですね。そこからどうしてオシロに就職したのですか?
コミュニティのことを何も知らなかったからですね。コミュニティに所属すると、「かげやまさんってこんな人だ」という固定化されたイメージが付いて息苦しそうだと思っていたので、今までコミュニティを自分には必要のないものとして捉えてきました。
けれど、インターン時代に業務を通じてOSIROの中のコミュニティを見ていくなかで、中にいる人たちが楽しそうに何かを生み出していることを知って、何も知らないのに頑なにコミュニティを嫌がるのもどうなんだろう、コミュニティの中にいる人たちにしかわからない価値があるんじゃないかと、もっとこの世界を知ってみたくなりました。
当時、データ分析チームすらなかった頃に「コミュニティを科学できる」と信じて疑わない社員たちがいました。人の繋がりやコミュニティという、数値化が難しそうなものをあえて数値化し、さらにコミュニティを研究していきたいと彼らは考えていたんです。その姿勢に感化され「私もその中に入りたい!」と思いました。
——コミュニティが好きとか、求めていたわけではなく、その価値や世界を知りたかった。
そうですね。園庭近くで「何を楽しんでいるんだろう」と不思議そうに同級生を眺めていた頃の自分と、今の私は変わっていないんです。
Wasei Salonという不思議な場に入ってみて
——実際、データ分析業務ってどんなことを行うんですか?
コミュニティメンバーが活動を楽しめるように、自社サービスであるOSIROの機能を日々改善しています。たとえば、メンバーをお誘いする機能がありますが、この機能を使うと、どれくらいイベントに参加する人が増えるのか、数字から分析しています。
—— どんなことにやりがいを感じますか?
機能を改善した結果、OSIROを利用している人たちに何か価値ある体験が生まれたときはやっていてよかったなと思います。
コミュニティによって運営者の動きは全く違うので、数値的にわかりやすい結果が出てきづらいんですよね。たとえば、仮説を検証しても一つのコミュニティに全体の結果が引っ張られて、全体の傾向を示す結果が得られないことがあるんです。そして、ただ改善することに注力しすぎて、機能の改善からどのような体験に繋がるのか、想像するのを忘れてしまうことも。
この前、「この機能がいいんだよ」とWasei Salonメンバーのもんさんに言われた時はうれしかったですね。おかげさまで、コミュニティ内の活動や体験を心から楽しんでもらうために、機能を改善するという手段があることを思い出しました。
—— Wasei Salonに入会されたのは、どのような経緯があったんですか?
「コミュニティを研究しているのに、コミュニティを知らないのはどうなのか」と社内で話し合うことがあったんです。上司からも「オンラインサロンに入ってみたらどう?」ときっかけを頂いたので、OSIROのコミュニティから探してみました。
しばらくして「Wasei Salonが合うんじゃない?」と上司に意見をもらい、私自身も探していた中で気になっていたコミュニティだったので入会しました。
—— どんなところに惹かれてWasei Salonに入会しようと思ったのですか?
Wasei Salonでは、人の投稿を見るだけではなく、自分から発信したり、イベントを企画したりするコミュニティメンバーの割合が多いことから、多くの人が安心して活動できる居場所になっているんじゃないかと思いました。そのために中でどのようなことが行われ、メンバーさんがどのようなモチベーションを持って活動しているのか気になりました。
あとは、日常生活で考えたり、話したりすると「めんどくせえよ」って言われそうなことをWasei Salonだったら話せそうだと思って。
—— 2023年12月に開催されたWasei Salonの忘年会で、「オシロの社員から見て、Wasei Salonはコミュニティとして理想のかたちをしている」という話をされたと耳にしました。
運営者はコミュニティメンバーの自主的な活動を期待しますが、事実メンバーが静観しているだけになってしまうことはよくあるんです。
でもWasei Salonでは思ったことを気軽に投稿したり、イベントを立ち上げたり、そこで何かが生まれて次の機会に繋がったり。メンバーが主体的に働きかけ、巻き込まれあっている。みんなで場が作られているんですよね。Wasei Salonじゃなかったら、こんな特別な場にはならない。
——実際に入ってみて、どうしてそうなっていると思いますか?
そうですね。毎日のように鳥井さんがつぶやきとブログを投稿していますが、問いを作ることが苦手な人でも、その投稿を元に考えるフックができたり、コミュニティの中で自分と他者の違いを見つめながら問いを生み出せたりと、自分自身を問い続けられる仕掛けが沢山あるからだと思います。
もう一つは、何かを創りたい、という気持ちを持っている人が多い気がします。自分自身が得たものを人に伝えたり、やりたいことをはじめたり。それは敬意を持って他者と関わり応援するメンバーさんがいることや、一人ひとりの経験を見守る文化がWasei Salonの中にあるから、生まれているものなのかもしれません。あとは、わからないです(笑)。なんなんでしょうね。Wasei Salonって不思議です。
——たしかに、みなさんが問い続けていることや見守る姿勢を実践してることは大きそうですね。今のところ、コミュニティの価値ってなんだと思いますか?
なんでしょうね。コミュニティの中の一人であることによって、好きなときに場へアクセスできる権利と、他の人に巻き込まれる権利を得られることかもしれないです。
——権利。
Wasei Salonメンバーのにしじーさんから「読書会のイベントを企画して欲しいです」とリクエストがあったので、イベントを企画したことがありました。
実は一週間くらい前から寝られなくなってしまうくらい、私はイベントを企画することが苦手で……(笑)。だけど、この人に言われたらやるしかないなと、ドキドキしながらイベントを開きました。
慣れないことをお願いされたり、慣れない場に誘われることの心地の悪さは、決して悪いものではなくて、自分を新しい場所へ連れていってくれる。そういう経験ができることに価値があると思います。
—— これまでコミュニティラジオのMC、忘年会の参加、読書会の立ち上げ、対話会の参加など、さまざまなイベントに参加されてきて、感じたことなどありますか?
自分の考えを人に伝えるのは、あまり得意じゃなかったんです。これからも関係性が続いていくであろう相手にボロを見せるのが嫌というプライドがあって、相手を傷つけてしまうんじゃないかとか、言葉を間違えて不快な思いをさせてしまったこと自体に、自分が傷つくんじゃないかと考えてしまって。
それこそ今もコミュニティの中にいるのに、「コミュニティを求めていない」なんて言うのも、どうかと思うんですが、Wasei Salonだったら「どうしてそう思うんですか?」と興味を持って訊いてくれる。当たり障りのないことを言わなくていい、という安心感があります。
居場所への違和感と祖母から受け取ったもの
——rioさんが抱いていた居場所への違和感はどのようにして生まれたのでしょうか?
同級生と興味は違ったし、学校に居場所があったわけではない。通学も遠かったので地元に友達がいたわけでもない。けれど、そのことを私は不快には感じていませんでした。居場所のない人に居場所を作ってあげようとすることに違和感があったんです。
学校で一人過ごしていると、幼稚園や小学校の先生に「友達を作りましょう」「もう少しみんなと関わりましょう」と言われたり、同級生が気を遣って沢山話しかけてくれたりするんです。ありがたいと思う反面、私はそこまで求めていなかった。
習い事や体験学習などを通じて、同じ目標を持った人たちと一緒に何かを頑張ることには充実感を得ていたので、たまたま同じ学校で居合わせた人たちと仲良くしなければならない、という焦りがなかったんです。
だから「ここがあなたの居場所(居るべき)ですよ」と作られてしまうと、そこから逃げ出したくなってしまう。私はどこでも楽しくやっていけるのになって。そういう感覚が長い間あったんですよ。
—— そこがコミュニティを必要としてこなかったことに繋がるんですね。rioさんだったら居場所を求めている人に、どういったことをしますか?
う〜ん、どうしましょう。わからないです。でも、その人の居場所に繋がるかはわからないですが、私だったら話をするかもしれないです。話を聞いてほしいんだったら話を聞くし、喋り合いたいのなら喋る。相手が求めるときに求めることをしようって思います。私ができるのは肯定も否定もせず、ただそこにいること、ですかね。
—— rioさんにとって居場所とはどういうものなんでしょうか。
これがあるから前を向いてやっていける、と思えるものが居場所なのかもしれないです。いじめに遭った当時は、特に誰かに助けて欲しいとは思っていませんでした。
高校1年生のときかな。「あのとき、あなたの表情が暗かったから、おばあちゃんすごい心配していたのよ〜」と、ふとした母との雑談のなかで、祖母が気にかけてくれていたことを知りました。
このときから、知らず知らずのうちに見守ってくれる人や、支えてくれる人はきっといると思えるようになったんです。「祖母」が居場所というよりは、「祖母の言葉」が居場所になっている。今でもお守りのように大切に持っています。
編集後記
居場所を求め続けて来た自分とは、全く違う生き方をされていたrioさんは、たくましく、そして興味深く、わたしは空いた口が塞がらなかった。オシロに意図せずに勤めるように至った経緯も不思議な巡り合わせだと思った。人はおもしろがって何かを受け取り続けていたら、納まるべきところに自然と納まっていくのだろうか。
オンラインインタビュー後、撮影のためにrioさんと初めてお会いしたのが6月の後半。雨上がりの涼しい風がふんわりと身体を包み込む日だった。終始ニコニコしている様子はrioさんにお会いしたことがある人ならお分かりだろう。撮影中、芋虫を見つけては葉っぱで突き始めたり、撮影位置を変えるために、わたしが前方を走ると、走って追いかけて来たりと、カメラを構えているのにも関わらず様々な表情を見せてくれた。想像していた以上に無邪気という言葉が似合う人だった。
「私、生まれたときからできあがっていたんです」とrioさんは持っていたスマホから写真を差し出した。その写真には生まれてきたことを喜んでいるような満面の笑みで、こちらに笑いかける赤ちゃんの頃のrioさんが写っていた。笑い方は今と変わらない。
今でも「やりたいことがない」というrioさんだったが、何かに呼ばれて「新しいことをするのが好きなので」と笑って一歩を踏み出している姿が想像できた。
撮影・執筆:タオ
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