私たちの“はたらく”を問い続ける対話型コミュニティWasei Salonのインタビュー企画「わたしの一歩」では、サロンメンバーが踏み出したさまざまな一歩に触れながら、その人の人生や考えについてお話を伺っています。

今回のお相手はWasei Salonができた当初からサロンメンバーとして活動し、コミュニティのなかでは兄貴的存在として知られる赤松翔さん(通称もんさん)。

「僕の一歩はわかりやすい一歩じゃないと思うんです。」

インタビューのなかでそう答えたもんさんは、Wasei Salonに入る前の5年間とWasei Salonに入った後の5年間を振り返り、それまで認められなかった自分の才能を認めてあげたことで、気づいたら踏み出していた一歩についてお話ししてくださいました。今回はそんなもんさんと振り返る「わたしの一歩」をお届けします。

※写真は、もんさんのご両親のふるさと「広島県鞆の浦」にて。

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赤松翔(あかまつ しょう)
1982年大阪生まれ。静岡県沼津市在住。2009年より印刷・EC販売(ネット印刷)事業で約10年間マーケティング・経営企画 / 部長を担当したのち、2020年より東京へ移り住み、サイボウズ株式会社にてkintoneのプロモーションを担当する。2023年沼津へ移住し、現在は本業のほかコーチングやイベント企画にも力をいれている。



仕事も家庭も惰性で過ごしてきた30代前半までの僕

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ーーまずはもんさんのこれまでについて伺わせてください。

僕は1982年に大阪で生まれ、そのまま大阪で育ちました。三人兄弟の末っ子で、運動も勉強もそこそここなせたため、成績表がオール4みたいな突飛した得意科目がない子供でした。

学生時代の僕は、裕福な家庭ではなかったけれど、親のすねを上手にかじって生きていました。だからこそ、あまり生きるということに困った記憶はなく、これからもずる賢く生きていこうと世間を甘く見ていたと思います。


ーーその後、社会人になってからはいかがですか?

その後、僕は印刷会社で働きはじめます。仕事は順調で、役職をもらい、評価もされていました。ただ、仕事で評価されることを重視するあまり、ワクワクする気持ちを大切に働こうという気持ちの優先度は下がっていたように思います。

あと僕は24歳で結婚をし、娘を1人授かったあと30歳で離婚しています。僕が結婚した時代は、「イクメン」という言葉が流行っていました。「男の人が育児をするのは当たり前」という時代に、僕はしっかりと家庭に向き合うことができませんでした。離婚をした僕は「家族というコミュニティに適応できない自分は…」とどん底に叩き落とされたような気持ちでした。


ーー今では想像できないもんさんの姿ですね。

僕は30代前半まで仕事も家庭も「まぁ、ほどほどに頑張ればいい」と惰性で過ごしていたんです。でも、離婚を機にこのままではいけないと徐々に行動をはじめます。

今の「もんさん」になっていくのは30代後半のこと。Wasei Salonもその一つですが、3〜4年以上所属しているコミュニティができはじめ、そこでの活動を通して、自分の輪郭を作っている感覚がありました。

それからはいつかできればいいと思っていた転職や移住を経験し、コミュニティ活動やコーチングなど、すごく行動的になったと思います。


ーー今はお仕事を含め、どんな活動をされていますか?

2020年に転職をし、「チームワーク溢れる社会を作る」という理念をもつサイボウズ株式会社で働いています。役割としては宣伝広告のマーケティング担当ですが、チームビルディングで下から支える副リーダーが得意です。「コミュニケーションで悩んでいる人たちをサポートして、ハッピーな人を増やしたい」を実現させたくて、コーチングやコミュニケーションを通じた個人や企業のサポートもしています。

今は沼津に移住したんですが、徐々にイベントや登壇の機会をいただき、いずれは沼津で場づくりをしていきたいとも考えています。


変化の過程でさまざまなコミュニティが与えてくれたもの

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ーー「仕事や家庭などすべてが惰性だった」とありましたが、今のもんさんはコミュニティをとても大事にされ、そのなかで生き生きと活動されているように思います。そんな変化の過程になにがあったのか伺いたいのですが、まずはWasei Salonのなかでの変化ということではいかがでしょうか?

僕がWasei Salonに入ったのは30代半ばの頃でしたが、当時のオンラインサロンやオンラインコミュニティには、「目立つやつが新しい仕事をつかむ」「活躍した人がちょっと偉くなる」みたいな風潮がありました。だからこそ僕も「このコミュニティでコミットするぞ!」みたいな気持ちはあったと思います。

でも、「コミュニティに貢献する。信頼を勝ち取る。手柄をとる。」って、会社でのスタンスとあんまり変わらないですよね。

当時からWasei Salonには、そんな要素とは違う「みんなで楽しみたいよね」「このプロジェクトはワクワクするからやりたいよね」という気持ちがありました。そんなコミュニティのなかで過ごすことで、必要なことがあればやり、ワクワクすることをやるという気持ちになっていきました。


ーーワクワクすることをできていると感じるエピソードはありますか?

先日、長野にある一棟貸し古民家宿「nagare 」にサロンメンバーと行ったんですが、あの日は、「年長者である僕が料理も運転もする」「翌日のコーヒーは同じく年長者の前沢さんが淹れる」「若いメンバーはただただ寛いでいる」という光景がありました。

普通だったら「若いもんなんもせえへんのかい!(笑)」ってなると思うんですが、僕としては料理も運転も僕がしたいからしただけの話。他にしたい人がいるかもしれないのに僕のわがままをやらせてもらったという感覚でした。

今の僕は、Wasei salonのなかでとても自然体でいられるんです。「もんさんはコミュニティを大事にしている」と確かによく言われますが、みんなが人として当たり前に大事にしていることを、僕もただ大事にしているだけなんです。


ーーもんさんは移住の前段階として、移動生活をしていましたね。そんな移動生活をするなかでは、見知らぬ人と同じ宿で過ごしたり、地域コミュニティのなかに入って過ごす経験もあったと思います。そんな経験は、もんさんの考えに変化をもたらしましたか?

僕が移動生活をしたのは、「その土地で暮らした際の風景や生活状況を知りたい」という目的からでした。だから、行く先々で出会ったコミュニティを通じて、もちろん刺激は受けましたが、それが今の自分の考えに大きく変化をもたらしたということはあまり感じていません。

最終的に沼津に移住したときも、人ではなく、地形や生活圏をみて「これだったら知り合いがいなくても生活できそう」と思ったんです。結果として、沼津にいた人たちのコミュニティのなかで、今楽しく暮らせていることは本当にラッキーでした。


僕は「コミュニケーション能力の高さ」を認めるのが怖かった

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ーーここまでのお話を伺っていると、30代前半までと今のもんさんの間には、じわじわとした変化を感じますね。

僕の一歩は、「転職したから。移住したから。」といったわかりやすいものではないように思います。ただ、そんな変化における最大のきっかけは、自分の持っている見えないスキルを自覚し認められたことにあります。

僕が今得意とし、好きでやっている「副リーダー」「サポート」「コミュニケーション」というキーワードは、過去の僕にとってわざわざ誰かにいうような特技ではありませんでした。僕は大阪人ということもあり、「コミュニケーションなんて誰にでもできる。特別なスキルではない。」って思ってたんです。

だけど、30代前半までに色々な失敗をして、本格的に人との関わり方やコミュニケーションを学ぶようになった僕は、それまでの自分は目の前の人ときちんと向き合ってこなかったことに気づきました。

きちんと相手を知ろうとすると、「世の中には素敵な人がたくさんいる」と気づくことができ、どんどん他者に興味が沸くようになりました。


ーー「副リーダー」「サポート」というものが、自分にとってスキルや才能だと思えたのはなぜですか?

前田デザイン室(現:マエデ)というコミュニティで、「もんさんは人と丁寧にコミュニケーションをとるよね。そうやってチーム全体のサポートができるのは才能だよ。」と言われたんです。あの時の僕は、「僕の存在意義はそこだったんだ!」と雷に打たれたような衝撃が走ったんです。

それまでの僕は、カメラマンとかデザイナーとか、そういうわかりやすい稼げるスキルを「スキル」と認定していたんです。だからこそ、そういうスキルを持つ人が羨ましかったし、誇れるスキルがないことは僕のコンプレックスでした。

ただ僕は「自分のスキルはコミュニケーション能力の高さだ」と自覚できたことで、やっと「僕のポジションはここなんだ!」と市民権を得た気持ちになったんです。そんな気持ちは「もっとコミュニケーションを学びたい。僕はコミュニケーションが心底好きだ。」と次の学びへのワクワクとした原動力になり、今やっているコーチングなどにも繋がりました。


何度も自問自答してきた一歩が、今の僕に繋がっている

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ーーもんさんの“わたしの一歩”は、「自分の才能を認めたこと」から始まったんですね。自分の才能を認め、自然体なままワクワクと行動ができるようになった過程のなかで、もんさんが意識しておこなってきたことはありますか?

僕はずっと、本当に自分が望む理想地点と、今自分がいる現在地点のギャップを見つめてきました。

30代前半までの僕の理想って、「出世したい」「稼ぎたい」みたいなよくわからないものだったんですよ。現在地点もきちんと見つめることができず、実力以上の評価をされている自分に、今の自分はどういう立ち位置にいるのか?がわからなくなっていました。

理想も現実も曖昧ななかで、とりあえずお金を出してセミナーに行ったりはしていましたが、なにか具体的な行動をしたわけではなく、やった気になっていただけ。あれから色々な挫折を経験し、人との関わりのなかで「今の僕にとって本当の理想とはなんだろう」「僕という人間の現在地点はどこだろう」と何度も自問自答してきた結果が、今の僕をつくってくれたのだと感じます。

自分のなかにある理想の捉え方って難しいと思うんですけど、まずは自分から半径3m以内で叶えられる理想を明確にし、それができたら次に目線を合わせることが大事です。その理想は、自分のわがままでいい。大人ってついつい理想に社会的な意味を持たせようとしますが、僕は今、自分のわがままに従って生きていますよ。


編集後記

「わたしの一歩」という言葉は、常にわかりやすい一歩であるとは限らない。「結婚をした。転職をした。移住をした。あれがわたしの一歩だった。」と言えれば簡単だが、人の変化は年単位で変わっていくこともある。

もんさんの今回のわたしの一歩は、まさにそんな年単位のじわじわとした変化であり、悩み続け、問い続けたからこそ、気づけば今の現在地にたどり着いていたという変化だったように思う。

人はゆっくりとした変化ほど、その最中に不安や焦りを抱くものであり、本当にこのままで大丈夫だろうか?という迷いも生まれやすい。今回のもんさんのお話は、そんな迷いのなかにいる人にとって、「そのまま迷いながら進め」という勇気になったのではないだろうか。


執筆:蓑口亜寿紗
社会とあなたをつなぐソーシャルコミュニケーター。家を持たない暮らしの後、千葉県館山市に拠点をおき、発信・言語化・まちづくりを軸に活動中。
・ポートフォリオ:https://note.com/azusanpo/n/nccc9278da8fd

写真:長田 涼
広島県の港町 鞆の浦を拠点に活動するフォトグラファー。暮らしにあるひとや風景を撮影するのが好き。
・ポートフォリオ:https://nagataryo.myportfolio.com 



▶︎赤松翔さん各種SNS
・SNSリンク一覧


 
・もんさんが現在行っているコーチングに関する記事はこちら:
「ギフトエコノミー&時間無制限のコーチング」


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