私たちの“はたらく”を問い続ける対話型コミュニティWasei Salonのインタビュー企画「わたしの一歩」では、サロンメンバーが踏み出したさまざまな一歩に触れながら、その人の人生や考えについてお話を伺っています。
今回のお相手は、会社員、フリーランスを経て、現在はサンフランシスコに本社をかまえる外資系企業で、BDR(business development representative)の仕事をしている徳永滋之さん(以下、シゲさん)。リモートワークをきっかけに、大学時代に住んでいた神戸に移住するなど、暮らしの面でもさまざまな一歩を踏み出しています。
シゲさんはこの記事が公開される2023年8月時点で29歳。Wasei Salon内のブログでも「30手前のこのモヤモヤを何と名付けよう」 と、これから30代を迎えるにあたっての変化を綴ってくださっています。
働くことに対して憧れを抱いていた学生時代から、さまざまな一歩を経験したシゲさんが、今どんな思いで日々を過ごし、何を大事にしているのか。そんな日々の片鱗に触れながら、これから30代を迎えるあなたに届くよう、シゲさんの「わたしの一歩」をお届けします。
徳永 滋之(とくなが しげゆき)
福岡県生まれ、神戸市在住。親の勧めで進学校に入学し、浪人しながら神戸の国立大学へ進学。起業を志し経営学部に入学後、学生団体の活動や友人と立ち上げた人材紹介の事業に精を出す。2回の留年を経て、25歳で大阪のIT企業に就職するも、3ヶ月後に退職。その後ライターやコンテンツ制作のフリーランスとして働きはじめ、結婚を機に東京へ移り住む。スタートアップ企業に勤めたのち、バーで知り合った経営者をきっかけに外資系企業へと転職し今に至る。
自分でビジネスがしたくて経営学部へ。シゲさんのこれまでの働くとは。
今は2月に転職をして、本社がサンフランシスコにある外資系企業の日本支社で働いています。新規開拓を行うBDRという職を担当しています。
今、僕がいる日本支社のメンバーは10名ほど。僕以外は一回り以上上の先輩方ばかりで、BDRは僕が一人目。所属はアジア太平洋チームで、上司はイギリス人という少し変わった職場環境です。
また暮らしという観点では、学生時代に住んでいた神戸に帰りたいと思い、基本リモートワークの今の会社への転職をきっかけに、妻と一緒に神戸に移住したばかりです。
ーーシゲさんの学生時代やこれまでについても伺いたいのですが、いかがでしょうか?
僕の出身は福岡県で、祖父も父も医者という家庭で育ちました。ちなみに弟も現在医者として頑張っています。幼少期は親の仕事の関係で4年ほどアメリカで生活。少し浮いた子供時代で、帰国したての時は周囲とうまく馴染めなかったのを覚えています。
勉強嫌いな学生時代でしたが、親に「いい大学に行ったほうが選択肢が広がるよ」と言われていたので、一浪しながら神戸の国立大学へ進学。「いつかは社長になりたい」「自分でビジネスがしたい」と経営学部を専攻しました。
大学3年生までは学生団体やアカペラサークルに所属していたんですが、大学4年生のときに「自分でお金を稼ぐほうが経営学部っぽい」と、友人と一緒に中小企業に学生を紹介するインターン斡旋の仕事を始めました。
さまざまな活動に手を出した結果、学業が疎かになり、気づいたら2度留年していました。卒業が迫ったタイミングで「とりあえずどこか会社に入ろう」と思って知り合いの社長に直談判。大阪の小さなIT企業で働きはじめたのが、25歳のときになります。
ーーシゲさんは学生時代から起業したい気持ちがあったんですね。はじめての就職はいかがでしたか?
実は1社目は、3ヶ月で逃げるように退職したんです。決められた時間に出社する型にはまった働き方にストレスを感じていたし、社長直下のプロジェクトを任され、数字のプレッシャーに常に晒される環境に心を病んでしまいました。自分から直談判して入れてもらったのにめちゃくちゃ申し訳ないですね、でも明らかに環境と合っていませんでした。
その後は、縁あって紹介された取材の仕事をきっかけに、フリーランスライターとして仕事を開始。編集、音声コンテンツ制作など仕事の幅を広げ、フリーランスとして約2年半働きました。
フリーランスをやめたのは、友人のスタートアップ企業にジョインしたから。フリーランスのときから業務委託として関わっていたんですが、2021年9月の結婚を機に東京に移り住み、そのタイミングで正式に社員として働きはじめました。
憧れていた未来は一生こない。挫折がくれた気づきと縁。
正直、はじめの会社に就職した理由ってなにもないんです。
僕は大学4年生で起業したんですが、はじめの半年くらいは売上がまったく立たず、就職しようと思ってインターンに参加しました。当時の僕は大学4年生の夏。あの頃は「自分の事業もある。渋谷のITベンチャーの仕事もしている。よし、俺はこのまま成り上がっていくぞ!」って結構イケイケだったんです。だけど、そんな最中2回目の留年が決まり、そこからはなにもかもうまくいかなくなりました。
就職先もない。お金もない。バイトをしたいのにどこにも受からない。とにかくお金がなかったので先輩にお金を借りたり、仕事をもらったりしながら暮らしていました。プライドや自我はなくなり、借金はあるわ、お酒は飲むわで、なにもかもどうでもよくなっていたんです。
大学6年目の後半はバーでアルバイトをしていたんですが、卒業3ヶ月くらい前に就職先が決まっていないことに焦り、当時メールのやりとりで一番上にあった知り合いの社長に連絡。採用時期はとうに過ぎていたのですが、お願いしてなんとか内定をもらい、とにかく生きていくために働きはじめました。
ーー大学に入るまでのシゲさんは、自分で稼ぐことや社長という肩書きに憧れ、「働く」ということに対してキラキラしたイメージを持っていたように思うのですが、そんなイメージが大学5〜6年生の頃に崩れ、最初の働き方に繋がったということですね。
そうですね、僕が憧れていた未来は一生こないと思ったし、だけどそれでいいとも思っていたんです。
それは「俺はそういう存在になれない」ということではなく、「経営者も普通の人間で、肩書きはただの役割なんだ」と気づいたことが大きかったです。人材紹介の仕事で出会った経営者、入り浸っていたバーで話した社長たち、そういう人たちから学んだことで、ある種達観した視点を持てるようになりました。
ーーシゲさんはその後フリーランスとして働きはじめますよね。その働き方を選んだきっかけはなんだったんですか?
はじめての会社を3ヶ月で辞めたあと、僕は2ヶ月ほどニートになりました。そのなかで、次のバイト先としてキャバクラの黒服の面接を受けに行こうと思ったんです。俺、そういう夜の世界絶対向いてそうやなと思って(笑)。
だけど、そんな面接間際に、知り合いだったフリーの編集者の方から連絡がきました。「交通費もバイト代も出すから、東京でやる医学部生20名の取材にアシスタントとしてきてほしい」、そう言われた僕は東京にも行けるし、お金ももらえると思って、その仕事を受けました。
ただ取材前夜、僕は大阪の梅田駅で酔い潰れて夜行バスを逃し、朝イチの新幹線に乗り遅れてしまったんです。遅れて現場に到着したことに翌日になってその先輩が怒り、「取材も原稿もお前がやれ」って言われて、僕は見よう見まねで取材をしました。
今になって思うと、あれは僕のためにしてくれたんだと思います。先輩は記事を納品するまで何度も赤入れをしてくれましたし、その後僕がフリーランスとして生きていけたのも100%その人のおかげです。
Wasei Salonはサードプレイス。ただあるだけで安心できる場。
ちょうど2020年の年明けって、コロナウイルスが流行ったじゃないですか。僕は4月から某企業のオウンドメディア編集長の仕事が決まっていて、月40万円ほど稼げる予定だったんです。でも、コロナでその仕事は流れてしまいました。
当時の僕は彼女もいないし、仕事も減って、「あぁ今ここで死んだら、俺10日くらい誰にも見つからんな」って寂しくなったんです。それで再び会社に入ろうと思い、友人がやっているスタートアップの会社に業務委託として関わり始めたのですが、働き方や暮らしが変わったことでいろいろと悩み、人と話すことに飢えてWasei Salonに入りました。
ーーWasei Salonに入ったあとは、どんなふうに場を活用していたんですか?
僕、結構出落ちみたいなところがあって、最初の1〜2ヶ月はもんさんとスナックイベントをしたりしていたんですけど、そのあと仕事が忙しくなって幽霊部員になったんですよね。
なぜか年末のアドベントカレンダー(サロンメンバーが日替わりでその年を振り返るブログを書く企画)だけいるやつみたいな感じで、あとはメンバーのブログを読んだりしていました。
僕にとって、Wasei Salonはサードプレイス。ただそこにあるだけでいいんです。
自分の考えを持っている大人がたくさんいて、その人たちが対話しながら自分の考えをアップデートしていく姿に、僕自身も仕事や暮らしに対する価値観が更新される頻度が増えたと思います。
仕事、引っ越し、結婚。たくさんの一歩があった2021年のこと。
2021年は本当にいろんなことがありましたね。
入社したスタートアップは、企業として変革期の最中。組織として引き締まったものの、全員やることがたくさんある状態。フリーランス時代の癖が抜けず、チームで働くということが全然できていませんでした。メンバーは最高で楽しく働けてはいたのですが、最初のうちは求められるパフォーマンスと自分の現状とのギャップに日々苦しんでいました。
家のことは奥さんに任せっきりでしたが、彼女も仕事をしていたので、家事バランスのことなどでよく喧嘩をしました。結婚生活って縛りがあるものだと思うんですが、それまで自由に暮らしていた反動もあって、僕は新婚にも関わらず現実逃避のために朝3時まで飲みに行くようなことが頻繁にあったんです。
当時はお互いにピリピリしていましたが、今は奥さんととても仲がよく、最強の夫婦だと思っていますよ。
ーー仕事も多忙で喧嘩も多かった2021年から、今のように思える過程にはどんな変化があったのでしょう?
慣れですね。抜本的になにかを変えたわけじゃないし、それしかないと思うんです。
僕ら夫婦は高校の同級生で、高校時代に付き合って別れて8年後くらいに再会し復縁したんですが、結婚してからは毎年、よく2人で行った地元のファミレスに年末の振り返りをしにいくんです。
そこで2020年に話したのは「お互い慣れなくて大変だけどがんばろう」ってこと。翌年の2021年には、1年間を振り返って採点し「前半は−40点だったけど、後半は100点だったから、トータルすると60点だね」なんて話したんです。
今はやっと作り上げた安定の上にいるので、あまりストレスはないですね。多分次は子供ができたタイミングとかで、また大きな負荷がかかると思うんですが、人生を総合的にみればずっと点数は上がっているし、生きやすくなってるなと思います。
いろいろな働くを経験した僕のいま大切にしたいこと
僕のこれまでの仕事は、すべて人の縁から生まれています。
フリーランスになったのも編集者の先輩が声をかけてくれたから。スタートアップの企業も友人が一緒にやろうと言ってくれたから。今の仕事も、バーで仲良くなった常連さんが日本支社長だったから。
人との関係性の延長線上に仕事があるし、仕事そのものが人との関係性だと思っているので、いま働く上で大事にしているのは「生まれた関係性を大切にすること」ですね。
ーー20代前半で「生きていくために働ければいい」と思っていたシゲさんですが、いま大事にしていることを含め、当時の自分に会えたなら何かアドバイスしたいことってありますか?
今の僕が2019年の俺に会っても、きっと「そのままでいいよ」って言うと思うんです。
今大事だと思っていることはどうせ学ぶ。それよりも、当時後悔しながら送っていた日々のひとつひとつが今はめちゃくちゃ大事だったとわかります。
しいていうなら留年時代にタバコは始めるなって言いたいですね。タバコを吸ってなかったら、僕もうちょっと喉の調子がいいし貯金もあったなって思いますもん(笑)。
ーーシゲさんのお話を聞いていると、どんなに大変なことや辛いことがあっても、それはそういう時期として捉え、慣れるまでがんばろう、慣れるまで耐えようとする一面があるように感じました。辛い時に投げ出さず、そんなふうに思えるのはなぜなのでしょう?
僕は大学生のときに、「人生は思い通りにならなすぎる」という気づきを得ました。
基本我慢強くもないし、逃げるのも得意なんですけど、人生はどうせ続いていくし、上がり下がりはあるものだとわかったんです。だからこそ無理に上がっていくための努力はしなくていいし、上がってくるまで気長に待てばいい。大学、特に留年での経験がそう思わせてくれました。
ーーシゲさんはこれから30代に入るわけですが、今後やっていきたいことはありますか?
とりあえず今は、新しい会社で一人前になることしか考えてないですね。あとは奥さんがご機嫌でいてくれたら、僕はもうそれでいいです。家庭を持って、家族と仲良く暮らす。月並みな言葉になっちゃうけど、家族の健康と幸せを大事にしたいです。
仕事はこれまでも予想外のことしかなかったので、これからはどうなるのか。市議会議員とかになってたら、バリ面白いですよね(笑)。
予想がつかない人生のなかで、何があっても周囲の人が幸せでいれるよう強い男でありたいという気持ちはあります。お金を生む力、コミュニケーション能力、そういうものはこれからも身につけていきたいですね。
人生をまじめに考えすぎない時間を。わたしの一歩を踏み出すときに触れていたいもの。
やばい…まじで変なのしか思いつかない…(笑)。とりあえず出てきたのは「お酒」だったんですけど、これ別にお酒じゃなくてもいいんです。
要は僕、まじめに社会生活を送ろうとしすぎるのって、人間に備わっている機能じゃむりだと思うんですよ。ばかになる、ぐでんぐでんになる、そういう非合理なまじめに考えすぎない時間があるからこそ、人はまたがんばろうってなれると思うから。
だからこそ、僕が一歩を踏み出すときに触れていたいのは、人生をまじめに考えすぎない時間。そして、そんな時間をくれたのが、僕にとっては「お酒」でした。
僕はお酒を介した人とのご縁があったからこそ、いろいろな一歩を踏み出すことができました。フリーランスになった時も、今の会社で働きはじめた時も、いろいろな人にフックアップ※1して引き上げてもらったからこそ、今の僕がいます。
だからこれからは、僕が誰かをフックアップ※1できる存在になりたいし、ゆくゆくはそういう場を作れたらとも思います。
ーー最後にこれから同じように30代を迎える方、結婚や職の安定を通して満足はしているもののこれでいいのかなと思っている方へ、メッセージをお願いします。
何も誇れる実績もないし偉そうなことは言えないですけど、あまり思い悩まないでいいと思います。思い悩むこと自体は人間の性だし、振り返れば青春だとは思うんですけど、人を傷つけたりやばいところから金借りたりせず、人との縁を大切にしていれば、人生は「いい感じのところ」に収束していくと思います。
だから、あんまり考え込まないで。それが僕から伝えたいことですね。
※1:フックアップ・・・ヒップホップ用語で、有名な人や力のある人が無名の状態である人を自分のフィールドまで引き上げて紹介すること。
編集後記
30代という年齢は多くの人にとって、なにかの終わりと始まりを示す時期のように感じる。なにもわからなかった学生時代から社会にでて、わずかな安定を感じながら日々を過ごすなか、転職、結婚、子育て、移住など「今までと同じでいいのだろうか?」と違和感を感じる人もそう少なくないだろう。
シゲさんの今回のお話は、激動の20代を過ごした人にとってはまるで戦友のような気持ちにさせつつ、30代という不明瞭な次の入口を前に「なにを選んでも大丈夫」という安心感さえ与えてくれたお話しだった。
人生をまじめに考えすぎず、あえて力を抜いた状態で次の入口に備えていく。そんなメッセージが、今この記事読んでいるあなたに届き、一歩を踏み出すきっかけになればいいなと願う。
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以下、シゲさんが暮らす神戸の街並み。「神戸はいろんな要素が詰め込まれたところが好きなんです。」と語るシゲさんであったが、筆者はその言葉と以下の街並みに、どこか人と街にリンクする“つながり”のようなものを感じた。
執筆:蓑口亜寿紗
社会とあなたをつなぐソーシャルコミュニケーター。家を持たない暮らしの後、千葉県館山市に拠点をおき、発信と言語化を軸に活動中。
・ポートフォリオ:https://note.com/azusanpo/n/nccc9278da8fd
写真:長田 涼
広島県の港町 鞆の浦を拠点に活動するフォトグラファー。暮らしにあるひとや風景を撮影するのが好き。
・ポートフォリオ:https://nagataryo.myportfolio.com
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