ひとの話や、ひとの相談を頻繁に聞くようになって、目の前の相手が、他者や世間の話をし始めたとき「その人の話として、最後まで聴くこと」って大事だなと思うようになりました。

言い換えると「すべては、そのひとの主観から発せられている言葉である」という自覚をハッキリと持つこと。

この点、どうしても僕らは、その人以外にまつわる話は、客観的なこととして、受け入れてしまいがち。

だからこそ、その認識自体がなんだかズレているように感じたら、それを訂正したり修正したりしたくなるわけですよね。

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でも、そのひとの目には実際にそう見えている、そう見えてしまっているんだから仕方ないだろう、というような哲学の現象学的な観点が大事なんですよね、本来は。

だとしたら、相手の視座を起点にして、話を聴くことこそが大事であって、自分や世間一般が考える、正しさや常識を前提にしてみても、仕方ないなと思うようになったのです。

「そのひとには、実際にそう見えている」そんな相手の物語を丁寧に聴くことが大事で、それこそが相手の話を聴くという行為なんだろうなと思います。

そんなことにハッと気がついてからは「あくまでそのひとの主観の物語が、いま目の前で語られているんだ」って思いながら、相手の話を聞くようになりました。

そして、その結果として、以前にも増して黙って相手の話を聴くことができるようになったなあとも思います。

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で、自らの実践を通して、漠然と感じていたこの現場目線の実感値みたいなものを踏まえて、最近読み終えた河合隼雄さんの『「人生学」ことはじめ』という本の中で「これだ!」と感じる話が書かれてありました。

これを読んだときに、僕は本当に強く膝を打ちました。

さっそく本書から少し、引用してみたいと思います。

意識的に私とあなたとか、自分と外界とか分けているけれど、本当はそんなふうには分けられない。
(中略)
実際の例でいうと、たとえばわれわれのところに相談に来られる人というのは、自分のことを言わないで他人のことを言う人が多いわけです。自分は正しいんだけども、あいつはけしからんとか、おやじがけしからんとか、息子がなってないとかというふうに言う人が多いんだけど、そういうのはみんな、僕はその人の自己のこととして聞いています。その人の友人のこととか、その人の子供のことじゃなくて、自分のことを話しておられるというふうに聞くとよくわかる。そういう点でいうと、その人が区別しているほど、自己と非自己の区別というのは、そんな明白ではないんじゃないかという気がします。


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この文章を読んだ時、「自分が実感していたことは、まさにこれだったんだ!」と思ったのです。

その人が語っていることは、どれだけ客観的なことであっても、実はそれはその人本人の話として聴く姿勢が大事である、と。自己と非自己の区別というのは、そんなに明白ではない。

もちろん、そのひとが実際に喋っている内容だけではなく、そのひとが文章として書いている内容もそうです。

具体的には家族や同僚、世間に対する不平不満のようなSNSの投稿であっても、すべて相手自身の話だと思って読み込んでみること。

そうすると、とても大切なことを気づかせてくれるきっかけになるなあと思います。

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なにより、こちら側が認識している客観(だと思い込んでいるもの)、その実際の認識とのズレに対して、イライラして消耗せずとも済むようにもなる。

私の知っている客観的な「ソレ」や「あのひと」の認識とすり合わせる必要もなくなるわけです。

だって、あくまでそのひとがいま話題として取り上げていることは、客観的な外側の「世界」のことではなくて、その人自身のことなんだから。

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「あなたには、紛れもなくそう見えているんですね」という話になるし「そう見えているあなたの解釈とは何か、もっと知りたい、もっと教えて!」という気持ちにも素直になれる。

「その解釈は間違っている」とか「それは相手の問題であって、他者の課題だ!」と、議論になることもない。

言い方を変えると、他者の課題、相手の愚行権に踏み込もうとする本人の姿勢なんかもまた、実はそのままそのひと自身の課題なんです、本当は。

にも関わらず「それは他者の課題なんだから踏み込むな!」とか「あなたの解釈や世界認識のほうが間違っているかもしれないよ」と言ってみたところで仕方がない。

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で、これは以前もご紹介した、河合隼雄さんの「牛に引かれて善光寺参り」の話にも見事につながるなと思います。

本書とは別の本、『カウンセリングを語る』という河合隼雄さんの本なかで「嫁が全く手に負えなくて、それに苦労している」という姑さんの相談の話について書かれていました。


その姑さんは、ひたすらに嫁の嫌なところ、悪口を散々カウンセリングの中で語るのだけれど、それをずっと聞いている中で河合さんは、その相談者に対して語った言葉は「それは牛に引かれて善光寺参りみたいなものですよ」と語ったそうです。

その意味するところは、その嫁があなたにとって「牛」であり、気づけば「善光寺」、つまり「宗教の道」に入っていくことにもつながっていくのだ、と。

ちなみに、ここでいう宗教の道というのは、自分自身が本当の意味で向うべき深い場所ぐらいに捉えてもらえると、わかりやすいかと思います。

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で、そのときの但し書きも素晴らしくて「ただし、そのときにだいたいみんな善光寺参りはしんどくて、脇道に行きたがるんです」とも書かれていました。

その脇道を行くための、「何かよい方法はありませんか」とカウンセラーに聴くんだけれど、そのときにだいたい「ありません」と非常にはっきり答えるんだ、と。

つまり、「この道を行きなさい」ということを助言するらしいのです。

「この道というのはいちばん苦しい道です、ただし、私も一緒に行きますから」というのが、カウンセラーの仕事なんです、と書かれてあって、あーこれは本当に素晴らしい話だなあと思いました。

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この河合さん的なカウンセラー的な立ち位置として関わり合うような関係性が、いま明らかに世の中において欠如しているように思います。

本人が「本人自身の課題」として悩み切ること、そこに寄り添うスタンスがなくなってしまっている。

そのひとが客観的な世界から影響を受けて煩悶しているように見えることに対して、ついつい助け舟を出してしまいたくなる。

具体的には「あなたは悪くない、悪いのは、あのひとや世間のほうだ」とか言ってしまう。

それは、相手を心から助けたくて、相手をケアし安心させたいがために、言っていることでもあり、その動機自体は尊いものでもあるのかもしれない。

でも、実は相手が自分自身の真の問題と向き合うことを妨げてしまっている可能性もあるわけですよね。

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また、相手の課題であれば黙って聴くことができていても、それが自分の見ている世界観や、自分の見ている他者との認識とのズレを発見すると、どうしてもそのズレを矯正したくなるわけですよね。

なぜなら、自分には決してそのようには見えていないから、です。

その解釈は正しいとか、間違っているとか、何かしらの評価を下したくなってしまう。

もしくは、その他者への執着から、意識的に目をそらさせようとしてしまう。

「他にもっと楽しいことがありますよ」というふうに。「相手は相手、自分は自分ですよ」などと言いながら。

現代に蔓延る「人それぞれだよねー」といった多元主義のようなものは、まさにそのスタンスそのものだと僕は思います。

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でも、その優しさや気遣いが、きっと間違いで。

というか、そうやって世間的な常識や正解を持ち出して、目の前の相手以外の全員が賛同してくれるような”常識”を持ち出し、楽になろうとしてはいけないってことなんだろうなと思う。

それは、ほんとうの意味で相手の役には立っていないのだから。

だとしたら、世界全体のひとが反対するかもしれないけれど、今この瞬間に相手にとって本当の意味で役立つ態度(作為・無作為問わず)で働きかけることのほうが、本来は有益なはずです。

これは言い換えると、もっとそのひとの奥にあるものを見守ろうとする勇気みたいな話でもある。

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だから、ひたすら、そのひとの見ている世界観を共有してもらっていて、そのひと自身の物語だと思って、淡々と聴かせてもらえばいい。

そうすると、不思議と相手の視座に対して自然と寄り添うことができるようになっていくし、そのひとがその人自身の力で自然と立ち上がっていく過程を見ることもできる。

これは、一度体験してみてもらえると、とてもよくわかると思うので、ぜひ具体的に試してみて欲しいなと思います。

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もちろん、これは他者の話を聴く仕事やコミュニティ運営をするような仕事に限らず、どんな人でも活かせる方法だと思います。

たとえば、少しずつ中年に入ってくると親も高齢になってきて、親の文句などもダイレクトに聴かされるようになるはず。

親が子どものように、ドンドンとわがままな言動になっていく姿を目の当たりにする。そして、世間や他者に対しても、散々文句を言うようになる。

もしくはYouTubeなどわかりやすいコンテンツに影響を受けて、極右や排外主義、もしくは陰謀論のようなコンテンツにハマってしまうというのも、よく聞く話です。

それが現代の社会と大きくズレているように感じるけれど、それは親自身の話であって、親の世界の物語であって、それはそれでひとつの紛れもない「現実」なわけですよね。

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まあそれでもイライラすることはあるけれど、でもそうやって思えるようになると、決して自分が知っている世界や特定の他者の話で親と議論することはなくなるし、それで言い争いになることもない。

どんな外側の世界の話であったとしても、あくまでこれは親自身の話なんだと思って聴けばいい。

親が抱いている感情は紛れもなく「現実」だし、その親の「杖」や、親が大切にしてきた「誇り」を、今の世間の常識に合わせる必要はまったくないはずです。


その親の「誇り」に対して一定の敬意を払い、尊重することが、相手の話を聴くということでもあるし、巡り巡って親自身の善光寺参りのお手伝いをすることになるんだろうなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。