ちきりんさんが、以前Voicyの中で紹介していた奥能登にある現代アートの話、とってもおもしろかったです。


プレミアム配信だから、課金しているひとにしか聴けない内容だけれど、このお話を聴くだけでも今月は課金する価値があるなと思いました。

で、この配信を聴いてはじめて僕は、アートの価値、特に現代アートの価値がわかった気がします。

具体的な内容は言えないけれど、現代アートが提供している価値は、この「アハ体験」なんだろうなと思いました。

アートの中に内包しているメッセージ性、それを言語化した場合には、言っていることはすごく普遍的で当たり前。なんだったら手垢着きまくりの話でもある。

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でも、経済界やビジネス界において成功するような頭が良い人たちにとっては、現代アートぐらいトンチに効かせてもらわないと、逆に伝わらないものがある。

知恵の輪みたいにむずかしくしないと、逆に納得できないということなのでしょうね。

自らの力によって、「わかった!解けた!」という、そのカタルシスこそが、メッセージを伝えるという点において非常に重要な要素だということなのだと思います。

この、あえて伝わりにくくすることで、伝わる快楽を味わってもらって「素晴らしい!プライスレス!(ゆえに、この値段出してでもこのアートが欲しい!)」という話にも、つながっていくんだろうなあと思います。

つまり、メッセージの内容、その価値というよりも、その届け方の複雑さや曖昧さ、伝わりにくさこそ、現代アートの価値でもある。

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で、これはきっと、何も現代アートだけに限らず、武士の世界において「禅」や「茶道」が流行ったという話も、きっとまったく同じ構造だったのだと思います。

ものすごく当たり前のことであっても、禅問答のような形にしないと、その当たり前のことがちゃんと伝わらない。

それゆえに、百戦錬磨の武士たちに向けて、あえて複雑にして、語りすぎないことによって、そのメッセージ性を必死で伝えようとしたんだろうなあと。

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ここまでの話をまとめると、いつの時代も、自己効力感や自己探究心で、自らの世界を切り拓いてきたという自負や「自己の物語」を持つ人たちにとっては、その自己効力感を思う存分本人が得られるカタルシスの中に、大事なメッセージを埋め込まないと、逆に伝わらないということです。

これはとても大事な発見と学びでしたし、世間では意外と語られない観点だなと思います。

そして、これも見事に「伝える」と「伝わる」の違いの話だし、良薬口に苦しをオブラートに包むということでもある。まさに、嘘も方便のひとつの形なんだろうなあと思います。

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で、そんなことを、漠然とモヤモヤと考えている時に、昨日配信した最所あさみさんとの映画『遠い山なみの光』感想回を収録しました。


そして、話題はカズオ・イシグロ作品の「視座の高さ」に及んだ時に、「僕がその視座の高さは感覚に喩えると何ですか?と聴いたとき、最所さんが「アハ体験だと思う、世界の見え方が変わること」と答えたのが非常に印象的でした。

まさに、冒頭の話とつながった瞬間です。

最所さんのような聡明な方にとっては、むしろカズオ・イシグロの作品みたいに、一般読者には、わかりにくい表現のほうが、逆に伝わる。

で、これがまさに大衆小説と純文学の違いなんだろうなあとも思いました。

そして、配信内でも話題になりましたが、「救われる物語」は、むしろそんな何を描いているのか曖昧で分かりづらいことが大切で。

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じゃあ、それは一体どういうことなのか。

つまり、語りすぎない、解釈の「余白」を残すことだと思うのです。

そのある種の「不在」こそが、「救い」におけるキーワードだろうなあと思います。

純文学は、空中庭園のようにふわっと立ち上げられた物語であり、地上から離れていることによって(つまり視座が高くなっていることによって)読者の側も、自分からそこに自らを付託することができる。

この感覚が、まさに神話や聖書のような役割を果たしてくれるわけです。

カズオ・イシグロや村上春樹の物語というのは、星新一の読後感にも近いという話題でもかなり盛り上がりましたが、その共通する点というのは、神話や昔話、寓話、民話のような「耳の物語」に近くて、あえて語りすぎていないところにこそ価値がある。

その証拠に、星新一も、「耳の物語」の代表作家であるカフカと同様、登場人物には具体的な名前があるわけではなく「K」や「N」など曖昧な名前で書かれることが多かったりもするわけです。

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つまり、大事なことは、この余白であり、むしろその作品における「雄弁さ」ではなく、「沈黙」のほうだということなんだと思います。

もちろん、他者に伝えるときは、「伝える」ではなく「伝わる」が大事であって、それゆえに、「どれだけ相手にとってわかりやすく雄弁に伝えるか」も、非常に大事なことではある。

だけれども、同時にどれだけ「伝えないか」つまりどれだけ「沈黙するか」もそれも同じぐらいに重要な要素であるということです。

個人的には、これは本当に目からウロコのような発見でした。

「神」はいつだって沈黙しているじゃないか、という福田恆存のあの言葉にも見事につながる話です。


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最所さんは、自分の読書体験、その推し活は「墓参り」みたいなものだと語っていましたが、その意味するところは、作家本人からの反証可能性、応答可能性がないことだと語らえていました。

そのことによって、そのときの自らの置かれている状況によって解釈が変わり得るのだと。つまり、解釈の複数性がそこに宿る。

また、その解釈が複数あることを見事に作者本人、つまりカズオ・イシグロ本人が描いて証明して見せたのが、今回の映画「遠い山なみの光」でもあったなあと思います。

しかも、かなり長い年月を経て、なんです。

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で、ちょうど、最近読み終えたばかりの遠藤周作のエッセイ集『生き上手、死に上手』という本で、遠藤周作本人が「静寂」の意味ついて語っている部分も、非常におもしろかったです。

一見するとわかりにくい話なのですが、今日の話もつながるし、ものすごく腑に落ちる部分なので、少し本書から引用してみたいと思います。 

「沈黙」という言葉を「静寂」という言葉におきかえてみよう。
静寂には色々な種類がある。まったく何もない空虚がもたらす静寂がある。しかし一方、そのなかにあまりに奥深いものがつまっているゆえに表面、静寂の形をとるという事もある。
卑近な話、しかるべき茶室に静座してみるとよい。茶室のなかはしんと、静かである。
しかしこの静かさは決して何もない静かさではない。大袈裟にいうと宇宙がそこで何かを語りかけているが、その言葉が我々の言葉と違っているので「静かにみえる」ような静寂にちがいない。これは茶人ならひとしく感じていることである。


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今日の話を踏まえて、この話を読むと、これは本当にそう思いますよね。

「そのなかにあまりに奥深いものがつまっているゆえに表面、静寂の形をとる」という逆転の発想。

静寂こそ、実は「沈黙の声」が充満し、完全に満たされている状態。

そして遠藤周作は、「だから、ひょっとすると、我々が人生の不幸、苦しみ、矛盾に出会って神仏を呼んでもなんの言葉も聞えぬあの沈黙、あの静寂も、決して、何もない空虚のためではなく、向うの言葉が我々の言葉と違っているので『静かさ』と感じられるだけの話なのかもしれない。」とも同時に語られていて、こちらも本当にそうなんだろうなあと思います。

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あとこの話は、過去に何度もご紹介してきた、『張良の沓』の話にも見事につながるなと思います。

師匠が何も言わずに2回沓を落として、それを2回連続で拾わされる。まさにその瞬間に、秘伝の奥義を獲得する、それは、このような「静寂」のなかに訪れるということです。


言い換えると、自らがその沈黙の中に「神」を見出せるか否か。

それとも、神父や宣教師など「はっきりとした声」に騙されてしまうのか、その違いでもあるということです。

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これは大切なことなので、何度も繰り返し書きたいなと思うのですが、「沈黙の声」というものが、この世界には、存在する。

「そのなかにあまりに奥深いものがつまっているゆえに表面、静寂の形をとるということもある」というのは、まさにです。

そして、純文学、その物語の中には、その「静寂」こそが見事に描かれてある。

これは、いま気づけて本当に良かったことだなと思います。

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もちろん、ツバメの雛たちのように、口をパクパク開けて、消化しやすいように噛み砕かれたものがただ注ぎ込まれるのを待ち続ける、そんな快楽も一方で存在します。

まさに現代の宗教のように化している「推し活」は、それを象徴しているなと思います。

ただ一方で、親鳥のように、自分で自由に大空を飛び回って、自分で「沈黙」を探しまわるような生き方もある。

もちろん、そこには深い孤独があります。当然ですよね、雛のように群れることができないわけだから。

どっちがいいのかなんて、究極わからない。

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ヒナたちのように、安全な巣の中で、身体と身体を寄せ合い、親鳥の帰りを待ち、帰ってきた瞬間に、大声で叫び声を上げて、口をパクパクさせるほうが幸せだった、ということも十分にありえるかと思います。

というか、世の中で語られている大半の「幸せ」や「幸福」、その大多数はそのような状況を指していると思います。

逆に、沈黙に耳を傾ける態度は、むしろ「孤独」や「不遇な人生」として描かれるほうが多い。

でも、本当の幸福というのはむしろ、こちらの方にあると僕は思います。

最後の最後は、自分の決めの問題。

ただ、ひとつだけ間違いなく言えることは、人生の大きな分岐点は、まさにここにあることだけは、紛れもない真実だと思います。

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そしてこれは最後に完全に蛇足ですが、今日語ってきたような「沈黙」の話が、まさに河合隼雄さんの言う「何もしないことに、全力を注ぐ」というカウンセラーの姿勢や態度の話にも見事につながる。

そのような「沈黙」や「静寂」的な働きかけや寄り添い方、付き添い方をしてもらえるからこそ、自らの内側から自然と湧いてくる「勇気」があるんだ、という話でもあるのだと思います。

この話をここでし始めると、ものすごく長くなってしまうので、この話題は、また別の機会に改めて書いてみたいなと思います。

なにはともあれ、今日のこの話がどうか、みなさんにも伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。