周囲からは決して気づかれない。にも関わらず「なぜ、あなたはそれを割り切らないのか」と問われることって、生きているとたくさんあるよなと思います。

でも、たとえ世界中を騙せたとしても、たった一人、絶対に騙せない相手がいる。

それが「自分自身」だと思います。

ひとは、そうやって自分自身のまなざしに対して、ずっと葛藤し続けているわけですよね。

もし仮に、「他者のまなざし」だけがこの世に存在し、人生がそんな他者のまなざしを騙すだけのゲームで勝つことならば、一体どれだけ楽なことだろうかと思ってしまうけれども、実際にはそうじゃない。

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とはいえ、他者のまなざしを騙すことだけが人生だと割り切って、人生を過ごしているひとも世の中には非常に多いと思います

そして、実際、それはある程度うまくいく。他人の目は、意外とカンタンに騙せてしまう。

表面的な印象だけで、「この人はすごい人だ」と思ってもらえることも少なくありません。でも繰り返しますが、そうやって世界中の全員を騙せても、唯一絶対に騙せない相手が、自分自身なんですよね。

自分自身が、その選択肢を選んでしまう自分自身のことを完全否定してくるわけです。

大きな事柄から、小さな事柄まで、人生はこの葛藤との戦いの連続だよなあといつも思います。

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僕はここで「割り切ることが悪だ」と言いたいわけではありません。

割り切っちゃったほうがいい場面は多いし、実際そのほうがより良い場面(正解・正義の場面)だってたくさんある。

というか、そういう場面のほうが圧倒的に多いのも、また人生の不思議だよねと思います。

その結果として、「こうすれば他者をコスパ・タイパよく騙せる」そんな盛大なネタばらしや、ハック術が、SNSやYoutubeを中心に幅を利かせてきたのが、過去10年間だった気もします。

でも本当はそうじゃない。割り切らないことの重要性、葛藤のほうにこそ価値があると僕は主張したい。

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で、まさにこれってアナキズムなんですよね。

以前ご紹介したことがある「アナキズム体操」の話なんかにもとてもよく似ている。

あのときに例に出した「なぜ、人を殺してはいけないのか」という話とも見事につながる。

言い換えると、つい、人を殺してしまいたくなるほどに憎んでしまう私に対して「どうか、人だけは殺さないでくれ」と懇請してくる私がいる。

そんな私と、いかに折り合いをつけながら共に生きていくか、という話なんかとまったく一緒だなあと。


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「人を殺す」という事象に置き換えると、極端でお大げさな話にも聴こえてしまうかもしれない。

でも「どこに就職するべきか」という大きな人生一大行事から「今日の晩御飯は何を食べよう?」という小さな日常の些細なことまで、この判断の連続のなかで、僕らは自己と折り合いをつけながら日々生きているはず。

ただ、ここまで書きながら、完全に手のひらの返したようなことを書くけれども、それでも「そうは言ったって仕方ないじゃないか!」と口を尖らせながら言ってくる自分のなかのえなりかずきとどう向き合うか、という話でもあるわけなんですよね。

みんな、そんな自分の中の「えなりくんのあの独特なまなざし」に、負けてしまうんだと思います。

「そうだそうだ、そうは言ってみても仕方ないだろう!渡る世間は鬼ばかりなんだから!葛藤してひとりで悩んでいたって仕方ない」と。

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でも、僕は誰かのそんな割り切れなさに、ただただ素直に寄り添いたいなといつも思うんですよね。

「正しい選択に寄り添う」じゃないですよ。その葛藤している姿勢や、過程それ自体に寄り添いたいなと思う。

選択の善悪なんて、ぶっちゃけどうでもいい。

僕はその葛藤から逃げないひとのことをできる限り支えたいし、言祝ぐことをしたいなと常々思い続けています。

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この点、たとえば寅さんなんかは非常にわかりやすい。

寅さんは、この葛藤から絶対に逃げないということを選びつづけた結果、フーテンとなった、フーテンにならざるを得なかった人間として描かれているなあと僕は思います。

寅さんは、常に自分の中の「えなりくん(あるいは、ままならない感情)」と対話し続けていて、その結果として「フーテン」という、どこにも着地できない生き方を選ばざるを得なかった。

ちなみに、フーテンとは、定職につかず、あてもなくぶらぶらしている人のことを指します。

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僕はここで、寅さんの生き方を肯定しているわけはない。そこはくれぐれも誤解しないで欲しい。

寅さんが、いやしくもあり、孤独な人間の末路でもあるというあの物語の中の世間の評価は本当にそのとおりだと思います。

だから、作中の葛飾柴又のひとたちからも、「寅さんのような大人にだけには、絶対なったらいけないよ!」と子どもたちを教育する際の反面教師のようにして、後ろ指さされるわけです。

でも実は、そうやって一貫していないように見える寅さんのようなひとこそ、実はずっと一貫しているなと僕は思うのです。

その内実においては、誰よりも「自分の魂に対して一貫していた」と言っても過言ではないんだろうなと。

割り切らないと、社会の型にはハマることができない。そしてだからこそ寅さんは、フーテンにならざるを得なかったわけです。

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そういうひとに対して僕は何かができるわけでもないですが、ただただ黙って共にいたい。

「その葛藤こそが、大事だよね」って無言で肯定したい。

ものすごく不器用で、世間からものすごく嫌われて、でもそれでも、ここで逃げたら自分自身が終わってしまうと勝手に思いこんでいる、そんなふうに生きるのがものすごくヘタクソなひとたちを素直に言祝ぐことがしたいんだろうなあと。

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で、今までは、その理由がよくわからなかったのです。

でも、最近おぼろげながらわかってきました。

そして、それこそがWasei Salonでやりたいことやこの空間の大きな価値のひとつでもあるように思ってきたんです。

なぜなら、それがいちばんの平和へと繋がる架け橋につながると思うから、なんですよね。

言い換えると、そんな葛藤の道を選んできたひとは、間違っても人を殺さない。

他人から嫌われたり厭われたりするような小さな悪事は日々繰り返したとしても、人だけは殺さないと思う。

逆に、割り切ってきたひとたちほど、見てくれは良くて、世間で見事に出世していても、そして他者からの表面的な印象が良かったとしても、世間の空気がガラッと変われば、つまり世論が戦争側に傾けば、カンタンに人を殺す、悪意なく敵国の兵士や国民を殺してしまう。

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この点、最近読み終えた東浩紀さんの新刊『平和と愚かさ』が、とてもすばらしい本でした。

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この本の中に、國分功一郎さんの中動態の話も紹介しながら「責任」の概念を巡って、あの有名な「731部隊」の話が出てきます。

戦時中、日本人が中国で現地の中国人を生きたまま人体実験に用いていたという秘密裏に運用されていた部隊のお話です。

そして、そのような残虐な部隊に属していた当時の日本の軍人には、罪の意識がなかったのだと書かれています。

それはなぜか。

詳しくはぜひ本書を実際に読んでみて欲しいのだけれど、その話の流れの中で、東さんは以下のようなお話を書かれていました。

少し本書から引用してみます。

日本の軍人は自発的に加害したわけではなかった(能動態)。かといって強制的に加害させられたわけでもなかった(受動態)。なんとなく、まわりの空気に押されて、一緒に加害するはめに「陥ってしまった」(中動態)。少なくとも自分たちではそう感じていた。
だから彼らは、みずからの加害行為について、罪も責任も感じず、事実すらまともに記憶しなかった。人間を生きたまま解剖し、殺すことについて、キセルのような軽犯罪と同じくらいにしか感じていなかった。


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これは本当にそう思います。

そうやって割り切って生きていくことが、そのひとたちの生き方だから、罪の自覚なんて持てなくて、逆に当然だということですよね。

そしてこのような愚かさを、本書の中で東さんは「愚かな悪」と書かれていました。

自分には、一切責任がないとカンタンに開き直ることもできる。だから戦後も、当たり前のような顔をして、一般生活の中にも戻ることができた。

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だとすれば、割り切るという態度そのものに、僕は原因があると思います。

ここで、勘が良い方ならすでにお気づきだと思いますが、ハンナ・アーレントが考察したアイヒマンの事例お話も本書の中では同時に展開されていました。

アーレントが提示した「凡庸な悪」の議論についても、東さんは自分とは異なる立場だと批判をしながら、持論を展開しています。

再び本書から引用してみます。

アイヒマン(凡庸な悪)は、ユダヤ人を殺したくなかったが、がまんして殺した。これは彼が行なった加害が、中動態的に生起したものではなく、受動態的に強いられたものだったことを意味している。
(中略)
凡庸な悪は受動態的に加害に加担する。殺したくないが、がまんして殺す。超越者のために殺す。精神分析の言葉でいいかえれば、「超自我」のために、あるいは「父」のために、自我を抑圧して殺す。
愚かな悪は中動態的に加害に加担する。殺したいわけでもないが、かといって殺したくないわけでもなく、なんとなく殺す。そこには超越者はいない。規則もない。超自我も父もない。ほんとうはだれも命令していない。


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「愚かな悪は中動態的に加害に加担する。殺したいわけでもないが、かといって殺したくないわけでもなく、なんとなく殺す。」

で、この無意識の「空気」のようなものがつくりだす構造に対して、戦後にハッキリと批判をし糾弾したのが、映画監督の伊丹万作なのだと思います。


でも、「愚かな悪」の存在をこうやって理解してくると、そうやって糾弾してみてもあまり意味がないこともよくよく分かってくる。

そもそも、本人たちに罪の自覚がないのだから。

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じゃあ、そうならないための構造をどうやってつくるのか。

その認識を持ってもらうためには一体どうすればいいのか。

それに対して僕なりの結論が、今日書いてきたようなスタンスなのです。

日頃から「これは自分の本心か?」「自分を騙していないか?」と内なるアナキズム体操を繰り返している人は、その「空気」の重圧、「愚かな悪」の誘惑に対しても無意識にブレーキをかけてしまうはずです。

つまり、割り切らずに、葛藤する。自分の中にいるもうひとりの「人殺しにだけはならないでくれ」と懇請してくる私の声に、耳を澄ます態度が自然と養われているはず。

そして、世間の正しさや世間の空気の要請に割り切って、安住しようとは決してしない。

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だとしたら、現に葛藤のなかにいるひとたちを、素直に応援したい。

その矛盾を受け入れることを応援したい。世間からどれだけ後ろ指を刺されようとも、僕はその葛藤の過程にいること自体を言祝ぐことをしたい。

もちろん、全員が寅さんのようにフーテンとしてのスタンスになんかなれない。そんなことしたら、また別の意味で世界が破滅してしまいます。

でも少しでも、寅さんのように「自分の魂に対して一貫していた」という立場のひとを増やしていきたい。

それは世間から、ことごとく嫌われることだから。惨めに混乱して骨の折れることでもある。


でも、それが、何も持たない僕ができる、平和維持のためのできる唯一の行為であり、Wasei Salonのような中間共同体をつくり続ける意味でもあるなと思っています。

なぜ、Wasei Salonのような「私たちのはたらくを問い続ける」なんて自らの葛藤に突進していくような場をつくっているのか、自分でも意味わかんないなとずっと思っていましたが、8年目に入った年末に、やっとわかったような気がします。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。