会社員としての旧来的なマナー「先輩よりも早く帰らない、目上のひとよりも末席に座る、お客様に対して深々とお辞儀をする」など、一見すると無意味な行動って、世の中には多数存在しています。

では、そもそもなぜ私たちはこんな無意味な行動をしているのでしょうか。

それはひとえに、相手に対して敬意を表明したいからです。

そして「敬意」には必ず、何らかの「尺度」が必要になる。

たとえば「脱帽する」なんかは、全く意味のない行動の最たるものです。

でも、その意味のない行動にこそ、敬意が宿るわけですよね。それは、私たち全員が「その行動には敬意以外の意味がない」とちゃんとその尺度を持ち合わせているからです。

「このひとが、この場所でこんなにも無意味な行動を取るということは、他者(私)に対して敬意を表しているに違いない」と断定できるわけです。

もし仮に室内が極端に暑くて、その結果として帽子を取ったのだと判断する余地があった場合には、それが敬意の表明なのか、自己の快適さのためなのかは判断がつかなくなってしまいます。

それだと、敬意としてまったく機能しない。

詳しくは以下の記事で似たようなことを書いたことがあるので、こちらをお読みください。

参照:敬意は「無駄」である。

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そして、ここからが今日の非常に重要なポイントなのですが、その敬意か否かの判断するための「尺度」が、日本人の場合は「儒教文化」によって裏支えされているのです。

日本人が全員、儒教文化という「ものさし」を無意識のうちに持たされているからこそ、相手の敬意に反応できるわけですよね。

冒頭にも書いたような、部下が自分よりも先に帰らないとか、部下が自分よりも末席に座っているとか、その無駄な行為の意味合いを互いに察し合う尺度を持ち合わせているからこそ、相手が自分に対してちゃんと敬意を表明していることを理解できる。

儀礼やマナーというのは、そのために存在しているといっても過言ではない。他にもネクタイを締めているとか、革靴を履いているとか、それらの行為がまったく機能性を持たないからこそ、いや、ただひたすらに苦痛であり非合理的だからこそ意味がある。

このアンビバレントな関係性について、多くのひとが大きく誤解しているように思います。

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ゆえに、現代の若いひとたちは、他者に対しての敬意が大事だと言いつつ、会社や田舎のコミュニティの中に色濃く残る儒教文化を強く否定する。

でもそれは、「こんにちは」という言葉を殺して、「こんにちは」以外の方法で他者に挨拶しようとしていることに非常によく似ている。

「ありがとう」という言葉を殺して、「ありがとう」以外の方法で感謝を伝えるための意志を表現することって本当に難しいはずなのです。

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だからこそ、まず第一に、私に対して敬意を払われていると感じる行動、その尺度が完全に「儒教色」に染まっていることに、自覚的になることが何よりも大切なことだと思います。

いま自分たちが壊そうとしているものが、自分たちが大切だと思っているものと完全につながっていて表裏一体であるということを理解することです。

つまり、私たちはいま悪魔を殺そうとしているように見えて、実は神を殺そうとしていることと同義でもある

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じゃあ、悪魔(儒教文化)だけを殺し、神(他者への敬意)を殺さずにいるためには、具体的にはどうすればいいのでしょうか。

この点「敬意は無駄である」という事実は揺るがないわけだから、行動それ自体がブラックにならないように(無思想性の状態にならないように)ひとりひとりが自分の頭で考えながら、その場その場に合わせた行動を自らの意志でとっていくしかない。

能動時な判断と行動を通じて、ひとつひとつ納得感を持ちながら自ら積極的に無駄な行動を行っていく必要があるということです。

そうすれば、まったく同じ行動であっても意味合いが変わってくる。他者の尺度に合わせようとして上からの命令や慣習に従おうとするから辛くなる。

自分の意志や決断で行う行動と、なんとなく世間がそれを強要してくるから仕方なしにやらされ感を持って行う行動とではわけが違います。

参照: 「目の前の相手に敬意を示す」という文化をつくりたい。

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誰かにとっては苦役であっても、誰かにとっては最高に幸せな仕事であるとはそういうこと。「敬意を表すとは何か」を、ひとりひとりが本当の意味でしっかりと考えなければならない。

たとえ全員の「敬意」に対する「尺度」がバラバラであったとしても、私の相手を敬う気持ちが相手にもしっかりと伝わるように。

参照:事前に用意したストックフレーズに頼らないで。 

いつもこのブログを読んでくださっている方々にも、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。