今日は昨日の続きのような内容です。

文学や小説の価値について、改めて考えてみたい。


小説の中には、現実の社会の中で言ってしまうと、炎上必須なことが書かれていることが多いなと思います。そう考えると、ペイウォールの一番古典的な形式。

小説という「真っ赤なウソ」の中だからこそ許されることでもある。

「この本のなかは決して現実じゃない。どうぞエンタメとして、ご自由に出入りしてください」と。

だからこそ、読者も安心して、そこで語られている物語に没入することができる。

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この中は「真っ赤なウソ」という合意の上で入場するからこそ、僕たちは安心して普段は目を背けてしまうような領域にさえも、カンタンに足を踏み入れることができるわけですよね。

過去に何度も語ってきた、村上春樹の空中庭園の話も、まさにそういうことだと思います。

そして、とはいえ、そこには養老さんが語るように「嘘から出たマコト」も同時に存在するわけです。


お化け屋敷のお化けはニセモノでも、お化け屋敷の中で感じる「恐怖」はホンモノであると。

こちらの価値が今、見直されているなと思うのです。

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この点、昨日ご紹介した、河合隼雄さんのトランクの中の「死体」の話。

それにつながるなと思ったお話がありました。

河合隼雄さんの『こころの読書教室』という本の中で、河合隼雄は遠藤周作の『スキャンダル』という小説を取り上げて、友人である遠藤周作について、こんなことを書いていました。

少し本書から引用してみます。

自分の深い、深い、魂とでも呼べるような世界へいこうと思うと、その通路というのはスキャンダルに満ちているということ。なかなか、きれいな道ばかり通ってはいけない。人間というのは、ものすごく難しい。遠藤さんも、そのことをずっと問題にして書いてこられた方だと思います。自分の心の中にある暗い世界、恐ろしい世界というものを問題にしてこられた。この本にも何度も書いておられますが、遠藤さんが考えたことは、自分の内面へ入っていくと、非常に暗い、あるいは恐ろしい、いろんな嫌なことが必ずあると。これは人によって表現が異なるかと思いますが、遠藤さんの言葉でいうと、それは人間にとっての「罪」ということである。つまり、嘘をつくといった罪のことです。


秘密は、つまり罪でもある。

トランクの死体のメタファーはきっと「罪そのもの」なのです。

河合隼雄はこの文章の続きとして、遠藤周作が「小説のなかで追求していってわかってきたことは、罪ということを介して、人間は再生することができるということです。いうなれば、罪の中に光があるということがだんだんわかってきた」のだと書かれていました。

こちらも非常に重要な逆説であり、大切な洞察だなと思います。

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つまり、自らの暗部や罪、秘密(スキャンダル)に直面することなくして、深い魂の世界へは絶対に至れない。

これは誰一人として例外はなく、紛れもない真実だと思うのです。

じゃあ、自分はその構造をどのように用いたいのか。

言い換えると、真実が見えにくくなる時代には、数多ある「真っ赤なウソ」、つまり「つくり話」しか残らない。それが今、世の中で起きている社会的な変化です。

だとしたら、本当に役立つ「嘘から出たマコト」を作り出したいなと強く思うのです。

「嘘から出たマコト」は、当然のように悪事を助長することにも使えるし、我田引水やカルトにも使える。でも、同時に祈りにも使えるわけで。

「真っ赤なウソ」の代名詞である「教会」という場自体が、そういう場でもあるように。

深い感動も、深い絶望も、どちらも教会の中で起きること。

だからこそ、本当の意味で深い魂の世界へ到達するために「善き物語」に触れ続けるしかない。

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言い換えると、善き物語と悪しき物語、それを見分けられるようになることが、いま本当に大事だなと思うんですよね。

この点について、文学紹介者・頭木弘樹さんが書かれた『口の立つやつが勝つってことでいいのか』という本の中で、「世界がゆらいだとき、どうすればいいのか?」という問いに対して、頭木さんは以下のように書かれていました。

こちらも非常に重要な観点だと思うので、直接引用してみたいと思います。

大きな助けとなってくれるのが、文学だ。人は誰でも物語を生きている。世界がゆらぐということは、これまでの物語では生きていけなくなったということだ。新しい物語が必要なのだ。それを作らなければならない。そのためには、まずは他の物語を読むことだ。そうすることで、自分の物語を書き直せるようになる。


これって、まさに再出発の話であり、弔いの話だなあと思いながら僕は読みました。

そして、そのときに参考になるのは、「他者の物語」でもあるということです。

もともと陰謀論なんかも、「真っ赤なウソ」としての「物語」ですからね。よくできた「つくり話」でもあるわけです。

その陰謀論の世界観に人を没入させるだけの力が、よくも悪くも、備わっている。だとすれば、その物語性には一定の敬意を払うだけの価値がある。

そして、物語にあまり触れてきていないと、そのような悪しき物語にカンタンに流されてもしまうという証拠でもある。

そんな「没入させる構造」を理解した上で、僕たちが本来触れるべき物語を見極めるリテラシーが、いま必要不可欠になってきているなと思うのです。

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で、ここからちょっと話の毛色が変わってきますが、現代のような急速なインフレ時代に、みんないよいよ「複利」のちからを実感しているはずです。

じゃあ、何の複利効果が人生において一番大きいのか。

それはお金でもなく、人脈でもなく、最終的には「読書習慣の複利」効果が結局のところ、いちばん大きい気がしています。

もちろん「読書は、量より質である」っていうのは、紛れもない真実。

でもだからこそあえて、突然マッチョなことを言いたいのだけれど、黙ってまずは1000冊読め、と僕は思ってしまいます。

「読書は、量より質」であることは間違いない。だからこそ、まずは黙って1000冊読んだほうがいい。毎日1冊ずつ読んでたった三年、これだけで人生がまるっきり変わってくると思う。

そうすると「質」とは何か、つまり「善き物語」とは何かも同時に段々と見えてくる。

質を語れるようになるには、まず量が必要だという逆説は、間違いなく「読書」にも言えることですし、これが複利のようにして、自分の人生後半にヒシヒシと効いてくるなと思います。

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そして、今日語ってきたように、ひとりひとりが良質な物語を読んでいる「デタッチメント(距離を置くこと)」こそが、結局いちばんの「コミットメント(関与すること)」にもつながるんだろうなと思うのです。

逆に、何か社会にコミットメントするような形で「お祭り」を続けることの危うさがあるなと、最近の世の中の風潮を見ていて強く思います。

秋になり「祭り」が増えているからこそ、余計に強くそう思うのでしょうね。

言い換えると、祝祭空間に居続けることの危うさ、です。

今は政治や推し活、エンタメ、そのすべてがフェス化し、「文化祭」化しているなと思う。

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確かに、その祭りへの没入感は世の中の嫌なことや実存的な不安も、すべてを忘れさせてくれる。

それは学生時代、文化祭準備期間中、試験勉強のことや家庭でのいざこざをすべて忘れさせてくれたように、です。

祝祭とはそもそも、そのような機能を持つ。

でも、その文化祭がすべて終わったあとの、我に返る瞬間が一番恐ろしいわけですよね。

熱狂していればいるほど、必ずそうなってしまう宿命にある。

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だから、お祭り好きな人たちは必ず、祭りの最中に、次の祭りの準備を始めてしまう。以前よりもより大きいもの、より賑やかなもの、より人が集まるものをつくりたくなる。

でもそれは、のどが渇いているからという理由で、海水を飲むのと同じ構造だと思う。

そしていつの日か、そんな次のお祭りを渇望する意識とは裏腹に、身体やこころのほうが、自分の意識とは無関係にバチンと電源が落ちてしまう瞬間がやってくる。

それがいちばんの虚無をもたらすわけです。

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逆に言うと、祝祭を仕掛け続ける人たちは、本なんて読んで欲しくないと思っていることも間違いない。「こっちに出てこいよ!」と、いつだって外に誘い出そうとする。

「書を捨てて、祭りに出よ」と言うに決まってる。

そして祭りごとに、あっちへふらふら、こっちへふらふらとしていて欲しい。

それ以外の時間は、時間労働を行って、入場料とグッズに貢ぐお金を稼いでいてくれることが、彼らにとって一番都合が良いわけですから。

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だとしたら、自ら能動的に我に返る時間をつくることの価値、です。それがいま本当に大事だなと思う。

祭りはいつか必ず終わる。

祭りを否定しないし、祭りを楽しむな、とも決して言わない。

祭りから我に返る、返る我がある、それが読書がもたらしてくれる醍醐味であり、効果効能だなと思うのです。

つまり、「我に返る」ことの恐ろしさではなく、むしろ「我に返る」ことの豊かさ、戻るべき「我」が育まれていることの価値を、もう一度見直したい。

そうすれば、祭り本来の価値にも、逆説的に自然と気づけるようになると思うから。

少なくとも、我を忘れるための祭りへの参加ではなくなっていくはずです。

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読書は一人の作業だと思いきや、ものすごく集団的な営みだなあと思います。

それが文化の厚みであり、中間共同体があるからこそ、人は本を読むことができる。

それは今の大河ドラマ「べらぼう」を見ていても本当によく分かるし、逆にいえば、この読書を楽しむ中間共同体が存在していないから、今は読書習慣が人々の中から廃れているだけとも言えそう。

ブッククラブや読書会が叫ばれている理由も、きっとここにある。

大衆にも流されず、個人にも引きこもらずに済むようにもなる。

つまり、政治や推し活、フェスのような偽りの祝祭感へのアンチテーゼです。

これからも善き物語を、それぞれが孤独の中で、安心して読み続けられる空間を淡々とつくっていきたいなと思います。

個々人が、善き物語にふれて「嘘から出たマコト」に対して正しく付き合っていくために。今とっっても大事な視点だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。