昨日は、イケウチオーガニックの池内代表と阿部社長が、登壇する「事業承継」がテーマのイベントに行ってきました。
https://x.com/IKEUCHIORGANIC/status/2011992818232049969?s=20
おふたりが揃って、「継ぐ」ことについて語るタイミング。これはぜひとも聴きたいと思いました。
しかもそれが京都という土地の商工会議所で行われることも魅力的。実際に聴きに行ってみて本当に良かったなと思います。
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ただ、冒頭から変な言い方をすると、ずっと“噛み合っていない”感じもありました。
会場の空気は、「どうやって正しく事業承継を設計するか」「どうやって失敗しないように引き継ぐか」という正解探しに、かなり強く引っ張られていた印象。
そういう空気のなかで池内代表が、笑顔で「何も決まらないうちに、先代がころっと死んでこの世からいなくなることがいい」と語られていました。
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この話を初めて池内代表の口から聞いたときには、最初は冗談だと感じていました。
でも、きっとそうじゃない。本当にそう思われていることが昨日のイベントの中でもとてもよく伝わってきました。
少なくとも僕には、何度かこの池内代表の言葉を聞くたびに、そう思えてきた。
だったら、ここにあるものは一体何かを、それをド真剣に考えてみたいなと。
ここに僕らの現役世代が完全に勘違いしているようなこと、その誤解も同時に存在すると思うからです。
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じゃあ、具体的に、ぼくらの誤解とは一体何か?その“噛み合わなさ”の正体は何か?
それはきっと、先代の考え方を「正しく引き継がないといけない」という思いというか呪いなんだと思います。
「でもそうじゃないんだ、正しく伝わる必要なんてまったくない」ということを、池内代表はずっと僕らに語ってくれているなと思う。
とても変な言い方ですが、「正しく受け継がれているは、正しく受け継がれている状態ではないんだ」ということを、いつも優しく伝えてくれている気がします。
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それよりも、自分たちでなんとかする、そのときの取り組み方のほうがよっぽど重要である、と。
この点、もちろん、縦の系譜を正しく継ごうとすることは大事なんです。
でもそれは、いつもの「指月の譬え」でいえば、先人たちが指さしてくれた月を見ることであるべきで。
でも、僕らは具体的なやり方ばかりを考えてしまう。
先代がいたときと変わらないように、従来通りに継続していることに、いちばん重きを置いてしまう。
それこそが文字通り、先人たちから「事業」を「継承」することだと思っている。
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でもそうやって「おまえたちが月だと信じ込んでいるものこそ、指の方だぞ」って何度も何度も繰り返し、池内代表は伝えてくれているなと思います。
本当に大事なものは、指ではなく、月のほうであり、その月は客観的に存在するものではなく、その月を目指して「どうにかしていく」という、その運動や循環の方なんだ、と。
言い換えると、月自体は客観的に理念やビジョン、マニュアルなど何かそういった紙に落とし込めるようなことではない。言語化できるものでもないということです。
「教典なんてものをつくって、それに従おうなんてしちゃダメだ!考えすぎるな」と語り続けてくれている。
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そもそも月は、言語化できる“到達点”ではなく、月を目指して歩き続けることで生まれる運動や循環のメタファーなんだと思う。
つまり北極星みたいなものなんです。
それは、一生到達できないメタファーとして置かれている。それがあることによって道に迷わずに済む、という抽象的な目印。
でもどうしても、科学が進歩しすぎた時代に生きている21世紀の僕らは、月は到達できるものだと思っている。
宇宙船で月に行ける時代に生きてしまっているし、月とはどういう物体なのかも、一度も訪れたことがないくせに、なんとなく理解できてしまっている。
でも本来もともとは、その真っ暗闇のなかの歩み続けるための「光源の一点」という意味での「月」だったはずです。
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これって、これまで何度も紹介してきたルソーの「一般意志」に対する勘違いなんかにも、めちゃくちゃよく似ているなあと思います。
どうしても僕らは、一般意志という客観的な正解が存在すると思い込んでしまう。
でも、誤解を恐れずに言えば、そんなものはない。「一般意志」なんて一切存在しない。
そうやって、客観的に一般意志というイデアというものが存在するということが一番大きな勘違いにつながりやすい。
また、厄介なことに「個別意志」の総和として「全体意志」は存在するからこそ、なおのこと、一般意志も同様に存在しそうに思えてしまう。
具体的な運用を行うための各論までには落とし込めなくても、それでも憲法とかソレに類似した何かとして、描けるし実現できると完全に信じきってしまっている。
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でも、過去に何度も繰り返し書いてきましたが、そのような思い込みこそが幻想だと、ルソーは手を変え品を変え、語ってくれているわけですよね。
「仮に、一般意志が存在すると仮定し、それを追い続けている時にだけ人々の集団の中に立ち現れる状態こそが、ソレだぞ」と。
自転車を漕いでいる間だけ点灯する豆電球みたいなもの。
なにか客観的に答えがあると思わずに、問い続ける態度や姿勢、そこから生まれてくる運動や循環のほうが大事なんだと。
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じゃあ、具体的に何を問い続けるのか。
IKEUCHI ORGANICの場合は、
「最大限の安全と、最小限の環境負荷」
ここが軸になる。
それを問い続け、判断し、行動し続ける。その方針を貫き続けて、そこに見合っているかどうかで判断し、行動し続けるということなんだと思う。
でもそれだけだと、やっぱりたどり着く点がない、ゴールが存在しないと思ってしまう。ゆえに、くじけそうにもなる。
たとえ幻想であっても、ちゃんと到達できる明確なゴールが欲しい。
それがきっと「2073年までに赤ちゃんが食べられるタオルをつくる」という達成できたか否かが明確に判断できるゴールなのだと思います。
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僕はこの目標を初めて耳にした時「赤ちゃんがタオルを食べられる必要なんてないだろう」と穿った視点で眺めていました。
もうタオルの極限まで行き着くところまで行き着いてしまったから、他に特に掲げる目標もなくて、それでもさらなる高みを目指すというプロフェッショナル意識なんだと思っていたけれど、きっとそうじゃない。
この目標は辿り着けそうで、決してカンタンにはたどり着けない、月みたいなものとしての具体的なゴールでもあるんだと思います。
そして、真の目的はそこを目指しているまでに繰り返される運動や循環のほう。
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そしてもうひとつ、池内代表がずっと語り続けていることは「お客様との関係性を何よりも大切にする」ということ。
お客様、しかもそれは卸先とかではなくて、エンドユーザーのことを徹底して観続けろ、そのお客様たちの期待に全力で答え続けろ、と。
自分たちの真の価値は、そうやってお客様の声を聞き続けられる、ファンのみなさんが存在していること。
そのファンコミュニティが存在しなければ、どれだけプロダクトとして素晴らしいものをつくっている会社であっても、何の意味もないんだ、と。
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つまり、ここまでの話をまとめると、
「お客様のために、最大限の安全と最小限の環境負荷とは何か」
これを問い続けている限り、道は誤らない。運動や循環は、必ず立ち現れ続ける。
でも、それだけだと抽象的すぎるから、イエス・ノーで判断できる具体目標として、「2073年までに赤ちゃんが食べられるタオル」が置かれているということだと、僕は理解しました。
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で、お客様は、時代ごとに変わる「変数」でもある。
その変数こそが、ここではないどこか、でも確実などこかに、会社を連れて行ってくれる。
逆に言えば、この「お客様のために」を見失って、手元のマニュアルに忠実に行おうとするから、大事なものが見えなくなってしまう。
実際、現代の伝統文化や伝統業芸を中心に、ありとあらゆる衰退産業がそうなってしまっています。
先代たちから、素晴らしいものを受け継いでいるにもかかわらず、エンドユーザーの声に耳を傾けないから、完全に見誤って古臭いものに成り下がっているものは、山ほどある。
それは「良いものとは何か」のほうばかりに躍起になり、先代が置いていった「教典」に忠実になりすぎた結果、時代の変数を無視し続けた結果でもある。
「真面目すぎる、正しすぎる」ことが皮肉にも、ドンドンあるべき姿から遠ざかっていく要因となってしまっている。
そして、そうやって、たどり着けないから、より教典にしがみついて、もっともっと教典に忠実に正しくしてしまうことが「正しすぎるがゆえに、正しくない」というジレンマを導いてしまう。
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できあがるものは圧倒的に素晴らしいものなんだけれど、誰のためにがハッキリとしていないがゆえに、すぐに「無用の長物」になってしまう。
長物、つまり良いものであるのだけれど、必要がないという状態が完成する。
ありとあらゆる補助金頼みの伝統芸能や伝統文化は、いま完全にこの状態だと思います。
繰り返すけれど、それは不真面目でも、怠惰でもなでもなく、マジメに正しすぎる努力をしているから、その状態になってしまっているということなんです。
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「お客様のために」を第一に置き、最大限の安全と最小限の環境負荷を実現するためにどうすればいいかを問い続け、トライアンドエラーを重ねていく。
その時に、プロダクトや、細かい現場レベルの思想は何でもいい。むしろなんでもいいと思っていなければいけない。マニュアルがいちばん邪魔をするわけだから。
それが、北極星なんだということ。そして、その北極星を後ろ向きに捉えて、目の前を流れる景色に自分たちで意味付けをしていけばいい。
自分たちの背中から流れてくる景色への意味づけ、自分たちで行えるその知力や体力、反脆弱性みたいなもののほうが、よっぽど大事だということです。
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ここまで偉そうに書いてきて、池内代表からは「いやいや、そういうことじゃない!」と笑われてしまいそうですが、むしろ、笑われたいなとも思います。
笑われるから、また「じゃあなんだろう?」と問いが立つ。問いが立つから、運動や循環も自然と始まるわけですから。
そして、世の中の大半のひとびとが「事業承継」の本質を勘違いをしている理由もよくわかったような気がします。
「受け継ぐって何か」ということがまたひとつ、自分のなかでまたおぼろげながら見えてきたような感覚はあります。
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最後に、これは完全に蛇足なんですが、
「AI時代に、経営者なんていらない、経営者は10社に対して1人でいい」と池内代表がイベント中に語られていて、これは本当にそうだなと思いました。
今日語ってきた運動や循環において、必要なのは経営者じゃない。
組織や政治には、強いリーダーがいれば、全てがうまくいくと思う勘違いとまったく一緒です。
トップの言うことに従って、ただついていけばいいという思考停止状態であれば、すぐに組織は崩れ去る。
むしろその甘えこそが世界をダメにしてしまう、それは歴史がもう何度も何度も証明をしているわけです。
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そうじゃなくて、その運動や姿勢をどう保つか。
全員経営という言葉は頻繁に用いられるけれど、ソレも半分正解かつ半分は間違っていて、全員コミュニティ、というほうが正しいと僕は思う。
それぞれの業界ごとに、一般意志を目指す姿勢がコミュニティ単位で健やかに維持継続していることのほうが大事。
そのときに経営者が行うことは、交通整理にすぎない。利害の調整役。それは確かにAIで十分だし、10社に1人ぐらいで構わない。
まさに、中国の故事成語「鼓腹撃壌」みたいな話です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、自らの業界や、自らが継ぎたいと思っている「縦の系譜」について、重ね合わせながら、自分なりに考えるきっかけになっていたら幸いです。
2026/01/31 20:45
