先日書いたこちらのブログ。


このブログの中で書いた話を、逆の視点から眺めた場合、全部観てないやつ、通読してないやつは、どれだけAIの使い方がうまかったとしても、その時点でアウトである世界線がやってくるってことでもあると思います。

でも、さすがに、そこまで言い切ると、色々と角が立つと思ったので、ブログの中では書きませんでした。

とはいえ、間違いなくそうなっていくんだろうなと思いますし、自分の中でそう思う理由が整理できてきたので、改めて自分なりにそう思う理由を書いてみようと思います。

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まず、言い方を変えると、やり切った経験があるかどうかこそが、AI時代の最大の差別化要因になると思っています。

AIがいくらでもアウトプットをいじってくれるなら、その全体を自らの身体にくぐらせたことがあるという体験こそが、一番の信頼の熱源であり、AIを使う人間側が持ち合わせている唯一の価値、最大限の説得力にもなるわけだから。

この点、現代を生きているみなさんがそうだと思うのだけれど、そのひとがペラペラと話をしている「知識」の内容自体が、AIを使って得た内容なのかどうかは、なんだか自然とわかるようになってきたなと思います。

それだけがキレイに、相手の話の中で浮いていて美しく悪目立ちしている感じ。

喩えとして正しいかどうかわからないけれど、そのひとの洋服のコーディネートの中で、新品下ろし立てのきれいなUNIQLOの洋服だけが、やたとら目につくのに似ている。

この感覚って、いつも本当に不思議だなあと思います。

同様に、どれだけ博学で、場にあった綺麗な論理であったとしても、そう感じる聞き手の私たちがいる。

UNIQLOの新品下ろし立ても、やっぱりどれだけ美しいコーディネートであっても、わかるときはわかりますよね。

ただ、これの怖いところは、僕も含めて、本人にはその自覚がないところなんです。

自分が出力したAIの回答は、宛先が自分宛てだから、なぜか全文読めてしまう。でも、他人が出力したものにはまったく興味を持てない。あの感覚なんかにも非常に近いです。

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だからこそ、これから価値が上がるのは、派手な知識や、派手な成果じゃない。

むしろ、いままで「タイパ悪い」と言われていたものだと思っています。

実際に、頭から尻尾まで、その現場(原作・原著・現地)を見てきた、という話の枕みたいなもののほうが、聞き手の信頼感を生み出すし、本人にも熱量高く語らせる要因となっていく。

つまり、実際に一通り全部観てきたという経験が、本人の中の自信になるわけです。

そこに自然と、話の厚みが生まれてくる。

良い意味で泥臭くなるというか、キレイじゃなくなってヴィンテージ加工されていく。

ペラっとせずに、ベタッとしてくる。言葉選ばずにいえば、ちょっと話の内容や論理が、汚れるわけです。

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言い換えると、AIの出力は、いつだって目的地(結論)に最短でワープをするようにできている。その過程の「汚れ」や「迷い」みたいなものが、一切存在しない。

一方で、人間の経験は、目的地に辿り着くまでに道に迷い、足が疲れ、退屈に耐えている経験があるわけです。

この「退屈」や「迷い」といった一見無駄なプロセスそれ自体が、言葉に目に見えない「ベタつき」みたいなものを与えてくれるなあと思います。

それは本来「アク」みたいなものだったし、人様に見せる時にアク抜きが推奨されていたのだけれど、むしろそのアクこそが、AIのおかげで(せいで?)個性になってきた。

一昔前に、水みたいな純米大吟醸が流行りすぎて、逆に癖強の日本酒や、どぶろく系が注目を浴びてきたみたいな感覚によく似ている。

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つまり、僕らは言葉の背後にある「その人が、その結論に至るまでに支払ったコスト(時間や身体的負荷)」を無意識に嗅ぎ取っているのかもしれない。

そうやって、ヘタでも、そっちのかけた時間の「熱量」のほうを見たがっている。変な言い方ですが、呆れたいんです、きっと。

半分呆れてしまうぐらいの体験こそ、珍しいものと認識している僕ら現代人がいるなと思う。

ベタッとして汚れているほうが、逆に人間らしい”愚鈍さ”みたいなものを感じる。

そして、それはそのひとの身体と「暇」がなければ、起こり得ない。

つまり、全身をくぐらせる体験ができないし、くぐらせた結果の自らの汚れこそが価値になりつつあるなと思う。これもまた、カキフライ理論そのものだなと思います。


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じゃあ、具体的にはどうすればいいのか。

「現場へ行け、自らすべてを味わってこい、以上。」

…なんですが、でも、そこにも明確に落とし穴があるなとも思っています。

「現場に行って、体験を積んだやつが偉い」「当事者に話を聞きまくったやつが偉い」そういう方向へと簡単に結論が導かれてしまう。

実際そんな言説は、既に大手を振って語られている。

でも僕は「そうなんだけれど、そうじゃないんだ!」と思っていて、ここが今日の一番の主張でもあり、非常にややこしい話になってくる部分だなと思っています。

ただ最後には、「あー、なるほど」と思ってもらえるように頑張るので、なんとか最後までついてきてもらえると嬉しいなと思います。

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で、この点、先日観ていたシラスの動画の中で、東浩紀さんが、「本当にそうなんだよ!」って思うお話を語られていました。

東さんの新刊『平和と愚かさ』は、紀行文と哲学、文芸批評が1冊の本となったような、分類分けしようとすると非常にむずかしい本なのですが、この紀行文の部分を書く時に「現地には行くけれど、取材は極力しなかった」と語られていました。

ちなみにここで言う「取材」とは、現地のひとに話を聞かせてもらうことを指します。

仮説を持って黙って行って、ひとりで味わって帰ってくる。

その時にあえて、無責任でいること。観光客の視点を持ち続ける、当事者のナラティブに引っ張られすぎないように意識していたと語られていたんですよね。

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この話を聴きながら、僕は本当に強く膝を打ちました。

「取材先の当事者のひとと直接会って、彼らの話を聴くことは、本当に正しいのか?」という問い自体が本当に素晴らしい。

僕もありとあらゆる地方取材をしてきましたが、その体験を経て、現地取材の短期滞在だけではなく、無拠点生活をした意味も、まさにここにあったなと思います。

4年間の無拠点生活中は、コロナ禍だったこともありましたが、基本的には誰にも合わなかったし、誰にも取材という取材はしてない。

自分の知らない土地、ずっと気になっていた土地を訪れ、数週間から数ヶ月単位で滞在し、ただただ現地を一人で歩く。そして、その体験こそが大事だと漠然と思っていました。

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この話も踏まえて、旅先でも、ちゃんと「暇」であることが、本当に大事だなと思う。

それは観光客として無責任でいることと、ほぼ同義ですから。

その土地のナラティブから切り離されて、意義や意味を追い求めない自分が、現地に身を浸してみることの価値です。旅先で、行動をしようとしすぎないこと。

今日の話と一見矛盾するんだけれど、決して矛盾はしないはず。

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あとは、旅先で興味がないものには、興味がないとスパッと切り捨て、自分の価値観や感性を同時に大事にしてみることも非常に重要だなと思っています。

しかし一方で、旅先での思いも寄らない出会いも大切にする。

自分がガラッと変わってしまうことも恐れない。

逆に言えば、旅先って、それが丁度いい塩梅で行われる下地があるということだと思うのです。

たとえ、興味ない素振りしていても、興味を持っていかれるものに出会ってしまう、行く前といったあとの自分が変わるというよりも、不可抗力で変えられてしまうということでもある。

それが、旅という非日常の価値であり、旅というものの中に潜む魔力。

まさに旅先における「鬼神」の存在です。

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そして、その「魔力」の発露や、自分にとっての「鬼神」の存在が何になるかは、行ってみるまでわからない。

鬼が出るか蛇が出るか、それは誰にもわからない。

だからこそ、暇じゃなければいけない。無責任じゃなければいけない。

ナラティブに絡め取られて地縁をつくりすぎてしまうと、予定調和的になってしまう。

退屈なものには退屈なのだとハッキリとNOと言い、そのうえで本当に私の興味関心をひくものはなんだろう?と、自分の中の直感力に対して、耳を澄まさなければいけない。

ガイドブックのコースをまわることばかりに必死になったり、取材前提のスタンプラリーのような旅をしてしまうと、余計にソレと出会えなくなってしまう。

そうじゃなくて、ふらふらする。ただただ、ふらふらする。

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これがきっと、東さんの語る「取材しない」ということの意味なんだろうなと思いました。少なくとも、僕はそうやって勝手にこの話を受け取った。

取材しようとしすぎないこと。その土地の「ナラティブ」には敬意を払いながら、ちゃんと尊重はしつつ、あえてそのナラティブを遠ざける。

というか、その土地のナラティブが、「鬼神」ソレ自体なわけですよね。

その鬼神に直接会いに行こう、参拝しようとするのが、旅の醍醐味だろうと言われたら、実際にそのとおりなんだけれども「鬼神は敬して遠ざける」が、やっぱり正解。

ナラティブに「触れるなかれ、なお近寄れ」を実践するのが、まさに旅の本質です。

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ここでは、わかりやすく「旅」と言ってはいるけれど、バーチャルの旅、つまり映画や作家の書く小説なんかもすべてそう。

当事者(監督や作家、登場人物)に、過度に感情移入しすぎないからこそ見えてくるものがある。

その距離感を持たせてくれるのが、映画や小説の醍醐味だなと思います。ただ黙って、無責任に傍観者でいられることができること。

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うまくいえないけれど、これがいま、AI時代にものすごく大事なことだなと思います。

繰り返しにはなるけれど「取材をする」ということは、相手が用意した物語(ナラティブ)をなぞることになりがちです。

しかし、AI時代に求められるのは「整理された客観的な事実」ではなく、「その場所で、何もせずに佇んでいたあなた自身に、一体何が起きたのか」という極めて私的な変化のほう。

そのときの退屈なんかも含めて、マルっと味わってくる。

旅先の世界像を自分の中にくぐらせる、もしくは自分を旅先の世界像の中にくぐらせる。

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そうやって、自分のなかの真の「関心」を発見し、その結果、自分のヴォイスを発見する。

そのヴォイスの厚み自体が、語る人間側の熱量を生み、聴く側の人々に対しての信頼なんかも育む。その時に語る内容自体を、AIで整えたとしても、まったく問題がない。その「芯」さえあればいいわけだから。

伝えるって本当にむずかしいなと思いますが、今日ここまで読んでくださった方々には、その意味が少しでも伝わっていれば幸いです。