昨日、Xにこんなことを書きました。この見立てが思いのほか、反響が大きくて驚きました。


お台場のガンダムが撤去されて、「9年間見守ってくれてありがとう」という声があちこちから出てきている。それが地味におもしろいなあと思ったのです。

だって、冷静に考えれば、僕らはずっとガンダムを見ていた側だったはずなんですよね。

お台場に行くたびに見上げて、写真を撮って、その前を通り過ぎて帰ってくる。ガンダムの側が僕らを見ていたわけではない。当たり前ですが、あれは立像です。

それなのに、いなくなる瞬間になると、いつのまにか主客が反転している。「長いあいだ見守ってくれてありがとう」と。見つめるまなざしから、見つめられていたまなざしへと変化した。

これはめちゃくちゃ人間らしい現象だなあと思ったんです。

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思うに、たぶん人間は、長く同じ場所に居続けるものを、いつのまにか「自分の時間の証人」にしてしまうのだと思います。

毎日通っていた通学路の大きな木でもなんでもいい。向こうがこちらを覚えているわけではありません。

でも、自分が子どもだったころも、学生だったころも、働き始めたころも、その存在は同じ場所にいた。こちらだけが変わっていく一方で、ずっとそこに在り続けてくれた。

そうすると不思議なことに、「自分がずっと見てきた存在」だったはずのものが、「自分の人生をずっと見てきた存在」へと変わっていくんですよね。

お台場のガンダムにも、9年間という時間の中で、同じことが起きたのだと思います。

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以前、「覚えるために書くのではなく、忘れるために書いている。」というブログを書いたことがあります。

参照:覚えるために書くのではなく、忘れるために書いている。

自分で全部を覚えておく必要はなくて、ブログのような場所に記憶を預けておけば、安心して忘れることができるという話です。

今回の話を考えていて、それとかなり似ているなあと思いました。人間は文章だけではなく、「もの」にも自分の時間を預けている。

そしてその存在が、何かを覚えている必要なんて実はないんですよね。ずっとそこに在り続けてくれたという事実だけで、こちらは勝手に自分の記憶を預けてしまう。だから失われると寂しい。

景色の一部がなくなったからではなく、自分の過去を預けていた場所まで、一緒になくなってしまったように感じるから、です。

そりゃあ大仏やお地蔵さんを人間はつくるわけだよなあ、と思ってしまいました。

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で、ここで僕がおもしろいと思うのは、その順序なんです。

ふつうは「神聖なものだから祀る」と考えます。

ありがたい存在が先にあって、それに守ってもらいたいから像をつくり、手を合わせる。神聖さが先で、祀る行為はあとと思いがち。

もちろん実際の宗教の歴史や教義は、そんな単純な話ではないでしょう。

ただ、ガンダムの一件を見ていると、人間の感覚としては、逆の順序も同じくらい強く働いているように見えるのです。

祀って、長いあいだそこに在り続けると、あとから「ずっと見守られていた」と感じるようになってしまう。神聖だから置く、だけではない。置き続けることで、神聖になっていく。

お台場のガンダムは誰も祀っていなかったはずなのに、9年という時間だけで、いつのまにかそれに近いものになっていました。

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先日、「必要じゃないのに残したもの」こそが文化になるのではないか、という話を書きました。

参照:取り返しがつくのに、大切にする。必要じゃないのに、残したもの。

あのブログでは、福岡・中洲の歓楽街のど真ん中に、合理性だけで考えればとっくに取り壊されていてもおかしくないお地蔵さんが、ずっと残されていることに触れました。

必要だから残っているのではなく、長く残し続けてきたからこそ、簡単には動かせないものになっている。

あのときは「残す側」からこの機構を眺めていました。ただ、今回のガンダムは、それを「失う側」から眺めているだけで、動いている機構はまったく同じなんですよね。

価値があるから残すだけではなく、残し続けるという行為そのものが、価値を生み出してしまう。

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そう考えると、「偶像崇拝」が厳しく戒められてきた理由も、僕には少し違って見えてきます。

もちろん、偶像崇拝の禁止には、それぞれの宗教に固有の神学的な理由があるはずで、「このために禁止された」と言いたいわけではありません。

ただ、人間という生き物の側から眺めてみると、「像を置いてはいけない」という戒めには、妙に不思議な説得力を感じるのです。

僕はずっと、あの禁止を「神の姿を勝手に像にするのは不遜だから」という、像そのものへの禁止だと思っていました。

でもたぶん、禁じられていたのは不遜な態度ではない。禁じられていたのは、人間のこの習性のほうです。

「お前たちは、置いたものをそのうち勝手に神にしてしまう。石でも木でも、何でもいい。いったん置いて、そこに在り続けさせれば、必ずそれを『見守ってくれていた存在』に変えてしまう。だから、そもそも置くな」と。

あと、これは像の出来栄えの問題ではなく、時間の問題なんですよね。

置いた瞬間には誰も拝まない。でも9年経てば拝む人が出てくる。100年経てば、拝まない人のほうが少なくなる。その先を見越して、入口で止めていたのだと思います。

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もうひとつ、Xには書かなかったことがあります。

感謝の言葉が出てきたのが、置いたときではなく、「失われるとき」だったということです。

これも実はめちゃくちゃおもしろい。

9年前、あのガンダムが建ったとき、「これから見守ってくれて、ありがとう」と言った人はいなかったはずです。

感謝は、撤去が決まってから、はじめて言葉になった。つまりあれも一種の「弔い」なんですよね。

以前、儀式というのは折り合いのつかない悲しみを半ば強制的に「終わったこと」にしてくれる装置なのだ、という話を書きました。

参照:僕らは、いつまで喪に服せばいいのかがわからない。

ガンダムの場合、撤去の告知があった。だから人々は最後に見に行って、写真を撮って、「ありがとう」と書いて、区切りをつけることができた。

告知という形式が、ちゃんと弔いの機会を用意してくれていたわけです。

でも、僕らの周りで消えていくもののほとんどは、告知なく、突然消えていきます。いつも通っていた店が、気づいたら別の店になっているとかはわかりやすい。

近所の大きな木が、地域の再開発で、いつのまにか切られてしまっているなんかもそう。

そういうものは、「見守られていた」ことに気づく機会すら与えられないまま消えてしまう。感謝は失われるときにしか言葉にならないのに、その「失われるとき」自体が奪われてしまう。

置いてしまったものは、下ろすときにも形式がいるし、それが僕らに弔いの時間を与えてくれる。

ガンダムはたまたま、それがあった幸運な例だった、だからこそこれほど話題にもなっているんだと思います。

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そしてこの話は、公共空間にある巨大な立像に限った話ではありません。もっと身近なところで、まったく同じことが起きている。たとえば、ぬいぐるみです。

かわいいから部屋に置いた、それだけだったはずなのに、5年、10年と同じ部屋に居続ける。引っ越すときにも連れていく。

落ち込んだ夜も、仕事がうまくいった日も、ずっと同じ場所にいる。そうするといつのまにか、自分がぬいぐるみを見ていたはずなのに、「この子はずっと自分のことを見てきてくれた、いつも私のことを見守ってくれていた」という感覚が生まれてくる。

だから捨てられない。処分することが、ものを捨てることではなく、自分の時間を一緒に過ごした相手との関係を断つことに近づいてしまうからです。

以前、トイ・ストーリーのおもちゃたちがなぜ子どもの前で動かないのか、という話を書きましたが、あれもまったく同じ構造だと思います。

参照:『トイ・ストーリー』と贈与論。なぜ、おもちゃが子どもの前で...

動かないからこそ、あとから「あれは贈与だった」と気づける。ガンダムもぬいぐるみも、動かない。動かないものが、時間だけでこちらに何かを返してくる。

この遅れがなければ、「見守られていた」という感覚はそもそも生まれないのだと思います。だからハイテクに動けばいいってもんでもない。

これはキャラクターIPの強さを考えるうえでも、意外と重要な視点だなあと思います。

キャラクター商品の価値は、好きなキャラクターを「所有できる」ことだけではなく、同じ存在を自分の人生の時間軸の上に居続けさせられること。

そして、自分だけが歳を取り、環境が変わっていくなかで、そのキャラクターだけは同じ顔でそこにいてくれる。ガンダムがたった9年で「見守ってくれた存在」に変わったことを考えれば、何十年も続くIPが持つ力というのうは、相当なものです。

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繰り返しますが、ガンダムは、ただそこに立っていただけです。僕らに何かをしてくれたわけではないし、本当に見守っていたわけでも何でもない。

でも、9年間ずっと同じ場所にただ立っていて、その9年間のあいだに、僕らの側にはいろいろなことが起きた。

言い換えると、意味というのは、一回の強烈な体験によってだけ生まれるわけではない。同じ場所に毎日あって、同じものを何度も見る反復。そして何年も同じことを繰り返す反復。

そうやって時間が堆積することによって、あとから意味が遡及的に宿って、最初から特別だったわけではなく、反復したからこそ、特別になったという構造が生まれてくる。

人間にとっての「神聖さ」というのは、案外そのような単純な反復から生まれてくるのかもしれないなあと。

お台場のガンダムに手を合わせた人たちは、たぶんガンダムを拝んでいたのではなくて、自分の9年間、もしくはガンダムという作品と共に過ごしてきた「自己の思い出そのもの」に手を合わせていたのだと思います。

これもまたカキフライ理論のひとつだなあと思いますし、AI時代には、この「くぐらせる」体験がほんとうに大事だなって。

参照:AIは反復しない。人間は、何度でも同じ話を繰り返す。 

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。