先日、noteの深津貴之さんがXで、こんな投稿をされていました。


これは本当にそのとおりだなあと思います。

AIが既存の情報をものすごい速度で要約したり編集したりできるようになるほど、「すでにあるものを、うまくまとめ直したもの」の価値は、当然相対的に落ちていく。

逆に価値を持つのは、その人がいなければこの世に存在しなかった一次情報のほうです。

しかもここで言う一次情報は、大スクープや専門的な調査である必要はまったくない。

実際にやってみたことや、誰かと直接話して気づいたこと、もしくはある場所で感じたことや、一冊の本を読んで自分なりに考えたことのような、些細なことで十分なはずです。

そしてこれは、かなり大きな逆転でもあります。

AIによってデスクの前ですべてが完結するようになると思われていたのに、実際にはAIが発達すればするほど、人間はデスクの前から立ち上がることを強制的に強いられるわけですから。

ここまでのような話は、僕も完全に同意します。

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でも、だからこそ、この直後に置かれた一言に、僕はかなり大きな違和感というか危機感を覚えてしまいました。

「AIやアルゴに評価されるようになっていく」


もちろん深津さんご自身は、続く投稿で評価者を人間社会のほうに戻されているし、「AIに媚びろ」なんてことは一言も言っていません。

むしろPVは麻薬だとずっと言い続けてこられた方でもある。

でも、この言葉を受け取る側、つまりフォロワーやユーザー側では必ず起きてしまうことがあると思うのです。

それは、有意義な体験をし、有意義なことを考え、有意義な文章を書こうとしてしまうこと。

それ自体は美しいけれど、でもその「有意義」を判定するのが、AIやアルゴリズムだとなった瞬間に、僕らは人生そのものを、AIの評価関数に向けて最適化しはじめてしまう。

人間がAIを使っているはずだったのに、気づけばAIに「生きるに値する人生」を採点してもらっている。AIの奴隷状態です。

これもまたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』イワンとスメルジャコフのような関係性。

参照:人間が言葉にしなかった真の欲望を、AIは実行してしまう。 

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そしてこれっていうのは、SNSやYoutubeで既に一度起きたことでもありますよね。

Instagramが普及すると、写真映えする場所に人が集まりはじめたわけです。YoutubeやTikTokなどのショート動画が普及すると、短く切り取ったときに映える出来事が、価値を持ちはじめた。

メディアは、僕らの体験をただ記録していただけではなかった。少しずつ、記録しやすい体験のほうを僕らに選ばせるようになったわけです。

生成AIは、同じことを、そしてもっと根の深いところで起こすはずです。

なぜなら今度は、判定されるのが写真の構図レベルではなく、人生の構図、そのストーリーや物語全般のほうなのだから。

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しかも、ここには格差の問題が、必ずついてまわります。

たとえば、世界一周をしたとか、自分で起業した会社を売却したとか。

もしくは、そんな金融資本の論理の真逆に振って、山奥に移住したとか、仕事をせずに研究したとかもそうかもしれない。

でも、よくよく考えてみれば、仕事を辞められること自体が、実はいちばんわかりやすい資本ですよね。

こういうものは、情報として既に派手だし、特徴量としてもAIが抽出しやすい。「この人にしか書けない」という判定もしやすいはずです。

だから、このAIシフトを素朴に押し進めると、人生の「レアリティ競争」が始まってしまう。

そして当然それは、「お金」と「時間」という二大資本を持っている人ほど、圧倒的に有利です。

経済格差と一次情報格差が、互いを増幅し合うようになる。結果、持てるものがドンドン持てるものになっていく。

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で、このような「一次情報」の価値という話で、僕がいつも思い出してしまうのが村上春樹のエッセイに書かれていた話なんです。

エッセイ集『やがて哀しき外国語』のなかに、こんな話が出てきます。

「こんなすごい経験をした人は、世の中広しといえどそう沢山はいないだろう」と言えるようなことは、僕の背負った経験袋の中には残念ながらひとつも見当たらない。客観的に見て、もし僕がこれまでぜんぜん小説というものを書いていない人間であったとして、「僕は何冊も小説を書けるだけの面白い経験をしましたよ」と今の時点で他人に向かって言えるかというと、これは言えないと思う。ぜんぜん言えないと思う。


長いのですべては引用しませんが、このくだりで村上さんは、二つのことを言っています。

ひとつは、自分には小説を何冊も書けるような面白い経験なんてひとつもなかった、ということ。

もうひとつは、むしろ圧倒的な経験をしてしまった人ほど、それを文章にする過程で激しい無力感にからめとられてしまう、ということ。

それを、ものすごく皮肉めいた形で書いてくれているんですよね。

つまり、レアな体験は書くことの役に立たないどころか、しばしば邪魔をするのだと。

そうやって、「俺の人生を小説にしてもいいですよ」と言ってくるような人間ほど、小説にしたらつまらない人間もいない。

そして、たいした経験はしていないけれど、ちょっとしたことに面白みや悲しみを他人とは違った視点から感じ取れる人のほうが、小説家に近い場所にいる、と。

「面白い人生」と「人生を面白く感じ取る力」は、まったく別のものだということです。

そして、AIやアルゴリズムが評価しやすいのは、間違いなく前者のほうなんですよね。

だから、余計に厄介だなと僕は思います。

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じゃあ、後者はどうすればいいのか。

ここで、以前もこのブログでご紹介した村上春樹のカキフライ理論の話に戻ってくると思っています。

『翻訳夜話』のなかで、原稿用紙三枚で自分のことを書けと言われたらどうするかと問われた村上さんは、こう答えていました。

参照:ベストバイとカキフライ。創作よりも翻訳こそ、人間のお仕事。

カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じ。

自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分自身を表現できる。

そしてそれには語彙はそんなに必要じゃなくて、いちばん必要なのは、別の視点を持ってくることだ、と。

これ、今回のAIシフトの話に対する完璧な回答になっていると思うんです。

カキフライは、どこにでもある。誰でも手に入るし、べつに高くもない。つまり、差がつくのは、素材の希少性ではなく、自分とそれとのあいだの距離感のほうです。

そしてその距離感だけは、資本では決して買えないし、手に入れられるような代物でもない。

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もうひとつ、村上さんの言葉で、決定的だと思うものがあります。

『TVピープル』のなかにある、以前ご紹介した一節です。

参照:村上春樹に学ぶ、AIではなく人間だから行える取材術とは?

事実は全部あっているのに、全然本当じゃない話がある。

これはもう、AI向けに最適化された一次情報コンテンツの正体を、30年以上前に言い当ててしまっているとしか思えないです。

「行った、やった、会った」それらは確かにすべて事実なんです。嘘はひとつもないし、一次情報としての要件も、完璧に満たしている。

でも、全然それは「本当」じゃない。

そういうものが、これから間違いなく生成AIの自動投稿で、大量に増えてくるはずです。

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このブログでも何度も書いてきたことですが、人間の仕事は本来「情報処理」ではなく「情報化」のほう。

自分の身体が受け取ったものを、自分の言葉に変換していく、その作業や過程こそが大事。

だからこそ、ここがいちばん大事なところだと思うのですが、「AIに評価される一次情報を得よう」というのは、書きはじめる前に、何が価値あるものかの答えが既に決まっているような状態なんですよね。

それは情報化のように見えて、実はただの「情報処理」でしかない。

素材が自分の身体から採れているというだけで、やっていることは、既にある評価基準に沿って、素材をAIのちからで並べ替えるだけの作業になってしまう。

身体性を重視し、自分の一次情報をもとにAIに文章を代筆させているつもりであっても、実は自分の人生を、AIのために最適化して情報処理しはじめているわけです。

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じゃあ、どうすればいいのか。

やっぱりここでも「くぐらせる」なんだと思います。

村上さんは『アンダーグラウンド』の取材について、テープ起こしをしたものを一度自分のなかにくぐらせる、いや、むしろ自分のほうを相手の話のなかにくぐらせると言ったほうが近い、という話をされていました。

まさに、カキフライを油にくぐらせるように、です。

そして、くぐらせるには「時間」がかかります。速くはできない。ここだけは、どうやっても短縮できない。

AIが決定的に持てないのは、実は体験そのものではなくて、この「くぐらせる時間」のほうなんじゃないかと思います。

そして、ちゃんと耳を澄ますこと。さもないと、ただAIが価値を見出す一次情報の体験、そんなスタンプラリーみたいな人生になりかねないから。

参照:専門知識が豊富なひとよりも、注意深く耳を澄ますひとに集まっ...

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だから僕は、これからやるべきことは「世にもめずらしい一次情報」を集めにいくことではなくて、その真逆だとすら思っています。

年末年始に小津安二郎の代表作を一気に観たときにも書きましたが、小津はずっと同じテーマばかり、同じように描いている。

何度も観ていると、正直「またその話か…」と呆れてしまうような瞬間が必ずやってくる。

でも、その呆れた瞬間にこそ、その人の譲れない業みたいなものにフワッと触れる瞬間が同時にやってくる。

つまり、レアリティの反対は、「反復」なのだと思います。

そして反復には、お金がかからない。誰にでもできるし、誰にでも開かれている。

毎朝同じ道を歩く人が、昨日まで誰も気づかなかったものをそこに見つけて、本当の意味でその事実を自らに「情報化」する。それが、これからの書き手の価値なのだと思います。

そんな些細なところに、ヒントはあるんだろうなあと。

豪華絢爛な文化がいくところまで行き着いたからこそ、茶の湯の文化が花ひらいたり、俳句のような文化が花ひらいたことと同じように、です。

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最後にまとめると、深津さんが語るとおり、これからは一次情報が大事になる。それはもう間違いない。

でも、その一次情報を「AIに評価されるもの」として集めはじめた瞬間に、僕らは自分の人生のほうをAIに差し出してしまう。

だから僕がここで声を大にして言いたいことは、ユニークであれ!とか、めずらしい一次体験を手に入れろ!とかそういう話ではまったくありません。それもまた新しい規範になり、新しい格差や、ともすれば差別につながってしまうから。

そうではなくて、AIから見れば何の価値もなさそうな体験を、それでも自分にとって大切なものとして、ちゃんと持っておくこと。

先日書いた、必要じゃないのに残したものが文化になる、という話とまったく同じです。

評価されるから大切にするのではない。評価されないのに、大切にする、という覚悟や勇気のほうです。

参照:取り返しがつくのに、大切にする。必要じゃないのに、残したもの。 

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もちろん、こんなことを書いている僕自身、このブログの構成をAIと相談しながら書いています。だから今日の話は、完全に未来の自分自身に向けて書いています。

AIに読ませたら「有意義な一次情報が不足しています」と判定されてしまいそうな一日を、それでも丁寧に「くぐらせて」、自ら情報化し、書き続けること。

それがほんとうに大事なんだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。