昨夜は、Wasei Salonの体験会イベントとして、アリス・ウォータース著『スローフード宣言―食べることは生きること』の読書会イベントが開催されました。

https://wasei.salon/events/233d043499e5
僕は、この本を読みながら、何度途中で読むのをやめてしまおうかと思ったかわかりません。

でも、今回の読書会が開催されるということもあり、最後までちゃんと通読してみようと思い、実際に最後まで読み切りました。

その結果、読み切ってみて本当に良かったなあと今は思っています。

一見すると、自分との価値観が合わないなと感じる本であっても、最後まで読み切ってみることの重要性、その著者との対話の時間をつくることの大切さについて、今日は少しこのブログにも書いてみようかなあと。

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僕は、この本に書かれている内容自体には、何の異論もありません。

自分とは価値観が異なる部分は沢山あるなあとは思いますが、人には人の「正義」がある。

僕が強い違和感を感じるのは、この正義の主張仕方、その構造自体が本当に苦手なんだろうなあと。

言い換えると、主張自体は至極真っ当なものだと感じるけれど、その主張によって、読者の人たちがまるで「印籠」のように用いられることが苦手なんだろうなあと。

「◯◯宣言」という類いの主張に対して、ワラワラと集ってくる信奉者たちの危うさみたいなものを、どうしても感じ取ってしまわずにはいられない。

似たような事例だと、patagoniaと、そのブランドを崇める人たちの構造にも似ている。

最近だと、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんの主張なんかもそうだと思います。

ほかにも、過去の歴史の中であれば、マルクスの『共産党宣言』もそうかもしれません。

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このような強い思想を持ち合わせた正義の主張のようなものは必ず、ソレを読んだひとたちが攻撃的、排他的になる。

ここに明確なリベラリズムの罠があるなあと。

具体的には、自分で考えたくないというひとたちが、「現代社会」を批判するために都合よく用いるための道具となってしまう。

常に、自責思考ではなく、他責思考に向かってしまうんですよね。

そして、社会的にそんなムーブメントに発展していくと、間違いなく著者(発信者)は自覚しているのに、それを大々的に喧伝する姿も、あまり好きじゃない。

自分もひとりの発信者として、そうしたくなる気持ちが痛いほどよく分かるからこそ、そのような主張をしないという矜持は、本当に大事だなと思っています。

ただ、あくまでこれも「美意識」の問題だと思っています。

僕はそのような扇動する主張というのは、たとえその内容がどれだけ正しかったとしても、「未来の普通」だったとしても、絶対にしてはいけないことだと思っています。

後述する、一番の諸悪の根源である「構造」を常に再生産し続けてしまうからです。

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あと、読みながら思ったのは、このスローフード宣言自体が書籍内で強烈に批判されているファストフードの「広告」と、同様の機能をもつものとなってしまっているようにも感じました。

具体的には、その切れ味が良すぎて、大多数の読み手を思考停止状態に落とし込む。

僕らに本当に求められていることは、外に向かって啓蒙的になるのではなく、矢印を自己に向けることだと思います。

参照:相手の「幻想」に意志をもって乗っかるとき、私の蒙が啓かれる。

そこから生まれる、迷いや葛藤、そのためらいの方が重要です。

参照:漫画『チ。』と『鎌倉殿の13人』に共通する「迷い」と「葛藤」。 

さもないと、お互いに歩み寄るの姿勢をとることは一生不可能だと思います。

そのために必要なものが「開かれた対話の場」であり、わかりあえなさに絶望するのではなく、わかりあえないからこそ、そこから出発する価値があると思えるかどうかが、ひとりひとりに問われている。

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ただ、途中でやめなかったのは、以下のような一文が冒頭に書かれてあったからです。

「この本でお伝えするのは、食べることが人の暮らしと世界にどのような影響をもたらしてきたか、そして、その道筋を変えるために私たちにできることは何かということです。参考文献を並べた学術的なものではありません。すべて、実体験からお話しします。食べることは、生きること。これが私の人生を導く哲学なのです。」


そう、これはアリス・ウォータースさんという人間、そんな一個人の「哲学」にすぎないんですよね。

決してこれを真似する必要はないし、むしろ真似をしてはいけないもの。

この哲学を垣間見せてもらうことで、「じゃあ、自分自身はどうするのか?」そんな自分の哲学を自己で見つけるためのきっかけにすることがすごく大事だなあと。

(それがなかなか、私自身の「無力感」と「孤独感か」ら逃れたくて、このタイプの本を読む読者には伝わらないというジレンマがあるのだとは思いますが)

参照:自らの孤独感と無力感から目を背けたくて、人は権威に服従してしまう。

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圧倒的に正しく感じてしまう思想、明確な行動指針があるイデオロギーって本当に染まりやすい。

でも染まっている時点で、前述したとおり、過去の様々な失敗とその「構造」はまったく一緒なのだと僕は思います。

そうやって、考えることを放棄して、民衆が強い思想に染まってきたからこそ、過去の全体主義や、現代の資本主義があることはもう間違いないですよね。

そのような、人々の行動、それ自体が昔から一切替わらないから、今も似たような言い争いをし続けているわけです。

ここに一番の根源的な問題があると僕は思います。

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でも、活動家と呼ばれるような人々は、そのような表面的なイデオロギーばかりを互いにぶつけ合ってしまう。

本当に重要なことは、この構造自体に参加者ひとりひとりが気づくことです。

そして、他者の意見を鵜呑みにするのではなく、ほかでもない自分自身の手触りのある実感値や体験から、この私にとっての唯一の「哲学」を作り続けようとし、アップデートし続けること。

それを決して諦めないってことなんだと思います。

そのために、意見を異にする他者とも対話をし続ける、お互いに問い続けるって言うことが大事なんだろうなあと。

Wasei Salonは、これからもそんな人々のための対話の空間として、しっかりと機能し続けるような場にしていきたいと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。