AI時代には、AIのサポートを受けながら、ありとあらゆることが何でも自分ひとりで行うことができてしまえるような世の中になっていくことは間違いありません。

だからこそ、他者に対して絶対に言ってはいけない言葉は「だったら、おまえがやれ」だと思います。

「えっ、なんで?逆じゃないの?」

「自分で何でもできるようになっていくからこそ、これまでは個性や身体的な能力など差別的な観点で許されなかった『だったら、おまえがやれ』というマッチョなセリフが初めて効力を持つんじゃないの?」と思うかもしれない。

でも僕は、決してそうじゃないと思います。

ここは非常にわかりにくい話かもしれないのですが、今とても大事な観点だと思う。

むしろ、AI時代だからこそ、絶対に言ってはいけない言葉になってきているなあと思うので、今日はその理由について、このブログでなるべくわかりやすく、丁寧に書いてみたいなと思います。

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この点まず、そうやって言い放ちたくなる気持ちはとってもよくわかります。

たしかに、もう全員が「自分で、できる」時代ですからね。AIのサポートを受ければ、誰でも、なんでもやれてしまう。

実際に、AIによってすべての業務が効率化されて、たとえ起業や資金調達であっても、行動や実装へのハードルは見事に下がりました。

その環境変化を受けて、行動力があって打たれ強い人たちはいつだって「だったら、お前がやれよ」と言ってくる。

具体的には、先日Twitter上で炎上していた、ホリエモンの「じゃあ、お前が買えよ」という北海道の土地をめぐる問題コメント、あのような発言も原理的には許容することならざるを得ない。

だって、実際に少し頑張れば実現できるんだから。そこにはもう、先天的な差異は関係がない。

やればできる、やれば終わるという徹頭徹尾、才能や能力ではなく「タスク」の問題。

で、「それができないヤツ、つまり、タスクの消化程度の努力ができない人間は黙ってろ!」という弱肉強色の世界観が成立するわけです。

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これは以前書いた、小説『カフネ』の感想ブログで書いた「嫌だったら、自分でつくれ」の話なんかとも全く一緒の論理。


今はスマホ一台あれば、だれでも料理をすることができる。YouTubeの動画や、AIのサポートなど本当に手取り足取り教えてくれるわけだから。

料理の才能とか技能とか、レシピ本を読み解ける理解力などももうほとんど関係がない。

これが今、いたるところで叫ばれている「スキルの民主化」で、「スキルの無価値化」でもある。

そして、この料理における状況が、ありとあらゆるジャンルにおいて起きてくるわけです。

「文句をつけるなら、自分でやれば?」という話にできてしまう。

先天的な才能やスキルのように思われて、役割分担だと思われていたものが、すべて民主化されて無価値されるからこそ、すべては「タスク」の問題に分解されて「だったら、AIの手を借りて、自分でやれ」と言えてしまう。

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しかし、そうすると、自分にも、その言葉はそのまま跳ね返ってくるわけですよね。

また、それこそが「自己責任論」をドンドンと加速させる。

具体的には、すべてのお膳立ては整い、あとは本当にAIの指示通りにやるだけなのに、やらないという状態は、本人の「怠惰」以外のなにものでもないのだ、と。

「能力がない、時間がない」という言い訳はもう一切許されない。

全員に平等に与えられているのは時間だけであり、一日は、誰もが24時間だけ。その平等に配られたカードの中でやらないのは、お前の責任、文句を言える筋合いなんてない、と。

たぶん今後は、福祉を担うべきひとたち、具体的には地方の行政職員でさえもこのような論理を語り始めるはずです。

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でも、そのような主張を許すと「わかってはいるけれど、手がつかないんだよ…!」ということに、僕らはドンドン苦しめられる形になります。

そして、それが本当に辛い。F太さんが普段からTwitterで書いているような話です。

これは、能力やチャンスを持ち合わせてできないこと以上に、辛いことでもあるはず。

正直、最初ぼくは意味がわからなかった。「やれるならやればいいし、やれないならやらなければいい。それだけなのに、何をずっとタスクに手を付けるうんぬんで葛藤しているんだ」と。

でも、それは僕の解釈のほうが間違っていた。

F太さんが書かれているあの葛藤こそが、AI時代の現代人が陥る一番の葛藤であり、苦しみであり、地獄です。

F太さんはいつもこの苦しみのことを言っていたんだな、とAIが進化してきて、ありとあらゆる能力が民主化され始めて、ハッキリと理解することができました。

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こうなってきたとき、原理的に考えたとき、僕らは2つの選択肢に迫られる。

ひとつは、自分が面倒なことも全部受け入れていく。実際「お金」にまつわる話は、もう既にそうなりつつありますよね。みんながNISAを始めている。

そこまでわかっていたら、やらないお前が悪い、という自己責任論を自罰感情として全社会人が受け入れさせられる。

社会的構造の要因かもしれないのに、すべてやらないお前が悪い、と。

「インフレ社会がまさにそのような社会であり、合法的に資産を奪える状況にした世界」だというのは、先日のおのじさんとのプレミアム配信でも語った通りです。


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そしてもうひとつは、自分が本当に好きな事柄以外は、すべて他人から押し付けられることを甘んじて受け入れるというスタンス。

一言でも何か意見を言うものなら、だったらお前がやれ、という返し刀が飛んでくるわけですからね。

結果として、口をつぐむことになる。こころを閉ざすことにもつながる。そして常に、気だるい感じだけが残り続ける。

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そんなアンビバレントな感情に、すべて蓋をされてしまうのです。

この時に生まれてくる、気だるさ、報われなさ。こんなにもすべてが便利になったのに、報われない。それはやる気を出さない自分に問題があるんだ、と。

やればできるとわかっていることにこそ、余計に絶望的になる。

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じゃあ、そもそも、僕らが本当に欲しているものは何か。

すべてが自分でできるということなのか。

そうじゃないですよね。それよりも、お互いに本当に情け深い気持ちで持って、共に助け合えること。それこそが本当に大事なことだったんじゃないか。

逆に言うと、僕らは今、すべてが自分ができる状況に追い込まれて(追い込んでもらったおかげで)、何かを勘違いさせられていたということに、ハッとすることができるタイミングでもあるわけです。

自己実現とは、能力を習得し、その能力によって何かしらの自己実現を果たすこと、だと思っていたけれど、でも違った、そうじゃなかったということですよね。

「HUNTERXHUNTER」のジン・フリークスの有名な言葉を改めてここで持ち出す必要もなく、本当は「プロセス」のほうに価値があった。

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つまり本当は、その習得した能力を他者に対して慈悲深く贈与のように施すことによって、人に喜ばれたり、人を幸福にしたりと、そういうときに自己の存在証明につながって、自分自身も幸福感を感じられたわけですから。

つまり人と人とが助け合い、お互いに「余人を持って代えがたい」と思い合える中で、幸福感をお互いに与えあっていたはずなんです。

まさに、過去に何度も語ってきた「真の共同性」と「目的性」の話です。

僕らが本当に迎えに行きたい世界線というのは、間違いなくそっち。

AIを使いこなし、一人ですべてを行って勝者総取りするのではなく、です。それはむしろ、どれだけ社会的に成功したとしても、より孤独を深めるばかり。

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このように考えてくると、「だったら自分でやれ」と突き放すのは、愚の骨頂であることはわかってもらえるかと思います。

得意な人が、より得意に好き勝手できるようにすることが、AIが持つ本当の力だと僕は思います。

そして、そのときの批判も「決してあなたを傷つけるつもりで言っているわけではない」とお互いに理解し合い、建設的なフィードバックループが回っている世界線こそが、本来、僕たちが追い求めている世界線であるはず。

AI時代は、一人勝ちするのではなく、ますますお互いに助け合っていく世界を構築していくこと。

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今日の話を、逆から眺めると、これからやってくるAI社会は、お互いを尊敬し合うことが、とてもむずかしくなる世の中でもあるわけです。

だって、自分にわかりやすく能力やスキルがあることが敬意を抱てもらう、尊敬してもらう、ラポールを築いてもらうきっかけにならないのだから。

それは僕らが現代社会において、足が速いとか地声が大きいとかに、本質的に敬意を抱かないように。江戸時代なら、それだけできっと価値があった。

すべてのスキルが無価値化される時代に、それでもどうやってお互いに尊敬して助け合っていくのか、それが今後の課題になることは間違いない。

能力やスキルの特筆するような状況以外において、相手を「余人を持って代えがたい」とお互いに思い合える関係性を構築していくこと。

きっと記憶や思い出、共に過ごした時間の豊穣さに収斂していくのだと思います。

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もちろん、「だったら、おまえがやれ」と書いたり発言してしまうひとにも、理解を示す、なぜそう言いたくなるのだろうか?と、考える必要も同時にあると思うんですよね。

彼らに対して石を投げるのも、また違う。彼らもある種のマイノリティであることは間違いないのだから。その人たちが一体どんな世界を見ているのかも、目一杯想像してみたい。

そのときの立ちあらわれる、お互いの心持ちこそに、幸福の源泉がある。僕はそう信じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

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